96話 どれが箱庭か…③

「ユキちゃん法学部だったんだし、君の方が詳しいかな」


 少年鑑別所などでも用いられている療法だ。法学部でどのくらい鑑別所の勉強をするのかは知らないが、場合によってはおれよりも彼のほうが詳しいかもしれない。


「……名前、くらいは。オレはあんまり少年犯罪とかそっちの勉強はしなかったから。どちらかというと、私法のほうが専門で」

「そっか……おれ、それの真似事をよくするんだよ。というかまあ、執筆をすることがそれに近いのかな」

「どういうこと」

「……おれにとって、執筆は脳内に湧き上がった箱庭の住人を文字に起こす作業なんだよね」

「……」

「一種の自己カウンセリングなんだろうな。……最初はベッドの上で妄想話を考えてただけだったんだけどさ、どんどん妄想癖が酷くなって。これを始めたのは確か……そう、姉さんが建築科だったのを手伝わされて始めたんだけど、物語の中の人間たちが住んでいる世界を可視化するのにちょうどいいなって、おれがハマっちゃって」


 あんた手先器用でしょ、やってよ。なんて確かぶっきらぼうに言われて、やり方を簡単に教えてもらって、姉さんが書いた図面に合わせて切って貼ってを繰り返した記憶がある。提出したら褒められたようで、珍しく「つーくんのお陰でほめられちゃった」って喜ばせることができたんだっけ。それから建築模型の課題をやるのは全部おれになって、その代わりおれは姉さんの持っている道具を貸してもらっていた。あんたも建築科くれば?とも言われたっけ。どうせ体弱いから定時制が限界だろうし、と皮肉も言われたけれど。一瞬考えもしたが電車通学に耐えられないから結局やめたのだが。


「ある程度世界観を作るのに慣れてくると別にいらなくなって作らなくなったんだけどね。昔は主人公の家とか簡易的に作ってたっけ」


 ブクブクに膨れ上がって自分から切り離した感情を整理するのにこれは役に立った。膨れ上がり過ぎると、どんどん自分が塗りつぶされて、ただでさえ自分がよくわからないのにさらに理解ができなくなってしまう。それに、整理しながら新しい発想が出てくることもある。感情にとらわれて視野が狭くなっている時に、こうやって情景を思い浮かべながら形を明確にしていく作業は、おれにはそこそこ大切なものだった。ある意味お人形遊びなのだ、物を語るという作業は。物語は、ある種箱庭作りの言語化と言っても過言ではない。


「……」

「本来は別にこんな大層な建築模型なんかじゃなくて、ミニチュアのおもちゃなんかを並べてやるんだけど、大人がやるにはそれじゃ少々つまらないだろ?」


 それに、多分いま彼にも……いや、おれにもきっと時間が必要だったのだ。余計なことを考えるのではなく、手先を使う時間が。考えることが人間の証左だと、みな口を揃えて言うし、おれもそれにそこまでの異論はないのだけれど、考えると言う行為は最終的な出力された結果と伴うわけじゃない。無駄に考え腐るのは人間の性で、そこを上手く自覚できないのであればそれは、考えることを放棄することよりもひどく愚かだ。


「できる気が、しないんだけど。美術の授業なんてもうやったの10年以上……」

「美術だ芸術だなんてどうでもいいんだよ、素人が遊びでやるんだから」


 そもそもお絵描きにしろ粘土を捏ねることにしろ言語が不発達で、手先が不器用で、明確なビジョンがなくてもできる創作なのだ。大人になるとそれは鮮明になりすぎて、言語と変わりないくらいに”明らか”になってしまう。それはそれで造形としての価値があるのだろうが、きっと彼に必要なのは言語化の代用としての作業ではなく、とりあえず何が彼の心象世界にあるかをひとまず出力することだ。それに物語が伴う必要はない。語ってはダメなのだ、拘束力が強くなりすぎてしまう。


「わかりやすすぎる芸術は大衆向けなんだよ。それは作る側の喜びじゃなくて見る側の喜びなんだよね。そして見た人間の言語に引っ張られてしまうんだ。……それじゃつまらないだろ?そして結局どいつもこいつも同じことしか言わなくなる。言葉にする過程で様々なものが零れ落ちて、別のものが勝手に拾われる。言語ってのはそういうものだ。そもそものノイズや混じりけのないものを、わかりやすく”言葉にしやすいよう”に作る必要はない。言葉にしてしまったら、もう定義づけされてしまうから。そもそも考えてもみなよ?おれたちは赤子のころはなんの言葉も持ってないよ?」


 そう、あまりにも強すぎるのだ。母親は子供のぐずる鳴き声で腹が減っているのか、排泄をしたいのか大体の判別が徐々につくというのに。言語にして簡単にしたがるのだ、感情というものはそんなに簡潔じゃないというのに。


「……まあ、そこまでいう、なら……」

「療法っていうと大げさだけど結局はお遊びだよ。息抜き息抜き」


 そんな大げさな言葉をつけられると気が滅入るのは自分だってそうだ。自己カウンセリングだと位置づけたはいいものの、まあ自分がやっていることが”そう”であったと気が付いた時はまあ認めたくなかったものだ。当時はまだ若かったし、自分の内面をどうにかして整理して癒して、とりあえずの回答を出して落ち着くための自己治療のために物語を書いている、なんていまでもどこかそれを自覚するたびに苦虫を嚙み潰したような気になるものだ。自分の幼いところを自覚するという行動は、あまりにもおいしいとは言えない。

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