77話 夢見て、残酷で…③

 ……そう、軽々しく言ってしまえたらよかったのに。私も変な経験ばかり積んでしまったせいで、その言葉は音を伴う前に崩れ去った。言うにはもう私は余計なことを考えて、考え腐ってしまようになってしまった。



「いつかいい人、見つかるかもしれないだろ。別にべたべたの恋愛したいってわけじゃないんだろうし」

「流石に諦めたほうがいい年齢とスペックだとは思うんですけどね。……おれのような人間を愛しなさいなんて難しいだろうし、そうじゃないなら利害関係を一致させないといけないし。……やっぱりヒモを養ってくれる子を出会い系で探すしかないかなぁ」

「その顔で随分と下品な言葉を使うよな、お前さん」

「顔は関係ないし、おれ綺麗な言葉で率直な実像を持ったものを濁すの好きじゃないんです。まあ、そんな勇気もないんですけど」

「あんたはそれにしても、自分の人生諦めるのが早すぎると思うけどね」


 そう思うのであれば、いっそ試してみたらいいのに。案外ヒモ好きが釣れるかもしれないし、好かれることはないと自分では思っていてもそんなこともないかもしれない。まあ、それに賭けるには心労が見合わないというのは私も多少理解する。奇跡はそうそう簡単に降ってくるものじゃないが、かと言ってなにもしなかったら降ってきてくれる確率が下がるだけだ。


「……そうですね。でもおれはきっと、諦めていたいんだと思います」

「そっか」


 この会話は解決策を見出したいんじゃなくて、ただただ内情を述べるだけのそういう場所だ、それでいいし、それがいいのだろう。人と話して全てが解決するのなら、この世に悩みなんてないのだから。


「自己暗示ですよ、自己暗示。そう思っていたほうが自分に都合がいいだろうって言い聞かせて、そうやって諦めたフリをしているんですよ」

「じゃあどうしようも、ないなぁ」

「どうしようもないんですよ。たくさんのどうしようもないが合わさって、こんな面白い世界があるんです。どうしようもないからいいんです」

「それでも面白いと言えるのが、お前さんの強みだと思うけれどね」


 たくさんの人が折れて心を病んでしまうような世の中を面白いと言ってのけるのだ。捉え方の問題と言ってしまえば簡単なように聞こえるが、それができたら誰も苦労はしない。それに、彼は苦労をしない世界はつまらないといいたいのだろう。


「だって、せっかく生きてるんですもん。面白いと思い込んでるのも結局自己暗示なんですが、人間自分にどう呪いをかけて、どう世界を見るかですよ」


 そうだ、せっかく生きているのだ。産んであげられなかった命も、生きたかった命もあるなか、私たちはまだそれを得て行使できる。あるものを使わないという贅沢ができるほど、私たちには余裕はない。


「おれはまだ、世界を楽しいものだと見つめていたいかな。というか憎む資格すらないですよ」

「そうか……まあ、私だって思い込みばかりだよ。気がつかないだけで」


 全部全部、現実に体は生きているのに、頭の中は妄想の世界だ。簡単に欲望と思考は矛盾するし、願いも絶望も、自分の思い込みかもしれない。目の前に並ぶモンブランすら、本当に自分は好いているのか、問いただしたらキリがないからみんな考えずに生きている。


「みんなそうですよ。自我ってへなちょこで役にたたない、自分からも他人からもいっぱい暗示を受けているのに、みんなそれに気づかないんです。別に大声でいうようなほど個人は個として成り立っていない。まあこれもおれがそう世界を見ていたいだけなんですが」

「なぁ……いい加減、本当の名前、聞かせてもらっていいか?」

「どうしたんですか?急に」


 確かに内心は自己正当化の繰り返しで、理解しがたいものかもしれない。けれど、目の前にいるこの一人の人間はちゃんと個として生きていて、名付けられている。識別できるように、もしくは迷子にならないように。あやふやになりすぎないように。


「……それでも、お前っていう個人は私の目の前にいるからさ、ただの名称でも知らないよりはいいだろう?」


 彼はしばらく不思議そうな顔をした後、メモ用紙をぺらっと一枚めくって文字を書き出した。


「こう書いて、”あさまつばさ”って読みます。安直ですね」

「綺麗な名前、親御さんからもらってるんじゃないか」


 そう私が率直な意見を述べると、彼は少し眉をしかめた。


「その割には飛べない鳥だったんですけど……ああ、そう。それを題材に昔、詩を書いたことがあったんです。国語の授業で」

「詩?」

「自分を題材にして詩を作りましょうって、確か中一くらいの時だったかな。で、翼なんて名前をつけられたのに体が弱くて飛ぶどころか走ることもできない……ってそんなこと書いたんですよ」

「……」

「偶然読んだ母さんにすごい勢いで謝られて……そんなつもり一切なかったんですけど、おれの言葉でこんなに傷つけてしまうんだって思って。いやぁ、バカだったなぁおれ。ちょっと考えればわかることじゃないですか。こんなこと言ったら親が悲しむって」


 自分も母親ごっこをしているから少しは気持ちがわかる。自分が産んだ子が、丈夫に産んで育ててやれなかった子が、そんなことを言い出したら申し訳なさで心がいっぱいになる。産んでやれなくても申し訳ないのだ、直にそんなことを思っていると知ってしまったら、それはきっと苦しい。けれど、彼はそんなことまで考えて詩を紡いだわけじゃない。人の気持ちはそうやってすれ違うことがもはや前提じゃないか。


「……それから、あまり親しい人には自分の書いた本を読んで欲しくないんです。少なくとも、来暮とか、道種とか……後者は次によく使う名義なんですけど、そっちの自分じゃなくて”浅間翼”って人間を知っている人たちには」


 本名なんてほとんど呼ばれない、と言っていた。きっと作家としてではなく、ただの一個人としての彼を知っている人々はもうそんなに多くはないのだろう。だからこそ、きっとそれを失いたくない。


「あんたのデビュー作、偶然だけど読んじまった。……確かに重っ苦しいけど、それはお前が見て抱いたものだろ?」

「……そうですね。読まれたんだったら仕方ないかな。……確かにおれは飛べない鳥だったけれど、飛べない鳥はそれなりに役割がありますから。飛べる鳥を羨んで、妬むって仕事が」

「はは、そうかい」

「生き物全てが空を飛べるなら、飛ぶことに価値なんてなくなりますからね」


 それもきっと彼の思い込みなのだ。でも、それで彼が楽になれるなら……それでいいと、思ってやるしかない。


 そのあとまた、下らない世間話をしてその日はお開きとなった。変わらず喫茶店のメニューはおいしいままで、大変なことばかりだけどこういう日常が続いてくれたらと願った。最後に毎回のように、じゃあまたそのうちここで会いましょうなんて話をした。


 ……彼の本当の名前を呼ぶことは、一度たりともなかった。

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