桜に一番近い場所

「ほら、見ろよヴィル!段々建物が小さくなって……ヴィル?」

「……何か?」

「いや、外の話してるんだけど……」

「ええ、続けてください」

「ヴィルは見ないのかなーって……」

「……」


覗き窓に一切視線を向けずに、正面だけを向いて黙々と登り続けるヴィル。

一京はそんな彼の様子に、初めは不思議そうな表情を浮かべていたが……やがて、「あっ」と小さく声を漏らした。


「もしかしてヴィルって、高所恐怖症……?」

「……」


無言はおそらく肯定。

心なしか、いつもより表情も強張って見える。

一京は、あちゃーと片手で頭を抱えた。


「何だよ、それならそうと言ってくれたらいいのに!」

「いえ、その、すみません。騎士が高所を恐れるなど、情けなくてとても……」

「人間である以上、怖いものの一つや二つくらいあって然るべきだと思うけどな」


項垂れるヴィルに一京は、気にするなよ、と肩を叩いて笑いかける。


「じゃ、降りようか。それから、どっかで美味い飯でも食って帰ろう」

「いえ、登らせて下さい」

「ええ?」

「……ケイ様の楽しみを、自分のせいで中断させたくはありませんから」


そう言うと、ヴィルは一京の隣を抜けて階段を登り始める。

一京はそれを見て、嬉しそうに笑みを浮かべると駆け足で追いかけた。


「でも、意外だな〜。ヴィルが高所恐怖症なんてさ」

「情けない所をお見せしてしまい、申し訳ありません……」

「いや、逆に嬉しいよ。長年の付き合いだけど、久しぶりにヴィルの新たな一面が見られた」


にしし、と子供のように笑う一京。

それを横目で見ながらも、ヴィルはため息をつく。

少しの間、巨大な時計の駆動音と、カツンカツンと二人のブーツの踵が石段を打つ音だけが塔の内部に響いていた。


そんな中で、ふと一京が思いついたようにヴィルの方を向く。


「ヴィル、手繋ごう!」

「は、はい?」

「そしたら、少しは怖くなくなるかも」


そう言って差し出す手。

ヴィルは戸惑って、その手と一京の顔を交互に見遣る。


「馬鹿にしてるわけじゃないって」

「それは、分かっているのですが……」

「じゃ、良いだろ?」


一京は、ヴィルの返答を待たずにその手を取ってしっかりと握り込んだ。

ヴィルは少したじろいだが、やがてその手を軽く握り返した。

手を繋いだまま一段だけ先を登りながら、一京はぽつりと語る。


「昔はさ、こうしてヴィルが手を引いて歩いてくれてたんだよな」

「……そうでしたね」

「結構、あれに救われてたんだぞ?」


十五で帝都を離れ、桜花教の大使として霧の都に渡ることになった一京。

自分よりも幾分も大きな体の大人達に囲まれ、値踏みをされるような日々を送っていた彼にとって、歳も近く日常生活を共にしていたヴィルは家族にも似た心の拠り所となっていた。

好奇の目が向けられる街中を、俯きながら歩いた日も……手のひらに伝わる温もりが、まだ幼い少年の背を支えていたのだ。


「懐かしいですね。ケイ様は随分と、立派になられた」

「あれから5年も経つからなぁ。少しは成長してなきゃ困るって」


ヴィルは自分よりも一回り小さな手のひらに頼もしさを感じながら、小さく笑みを浮かべた。

初めて二人が出会ったあの日、屋敷で心細そうに身を縮めていた少年が、霧の都の象徴に心躍らせている。

ヴィルにとっては、それが何よりも嬉しかったのだ。


「ヴィル、もうすぐ展望階だよ」

「……はい」

「やっぱ、怖い?無理しなくて良いんだぞ?」

「大丈夫です」


貴方が導いて下さるのなら、と続けるヴィル。

一京はそんな彼にまた笑って、「任せとけ!」と繋いでいない方の手で胸を叩いて見せた。


幾つもの扉のような形で壁が切り抜かれた展望階。

そこへ至る最後の段を二人が登り切った時、ざあっと風が吹き抜ける。

長い階段を登り切った彼らは、気候に反して少々汗ばんでおり……その風は熱くなった身体を優しく労ってくれるようだった。


「ヴィル、あっちに行こう。あそこなら、高い柵があるから少しはマシだろ?」


一京がヴィルを促し、二人は外界を臨める窓辺へと歩いた。


「ほら、上!地上で見るよりも、随分と帝都が大きく見える!」


はしゃいだ声でそう言って、頭上を指差す一京。

ヴィルはそれに釣られて、空を見る。

……建物にも霧にも遮られない空には、見たことのない世界が浮かんでいた。


「凄い……」

「だろ!?下だと、ぶ厚い霧越しにしか見えないからなぁ」


流石に人々の往来までは見えないが……京都にあるものとは全く違う作りの建物や、淡赤色の花で覆われた木々が立ち並んでいるのが見てとれる。

それはヴィルが、一京の話を聞いて頭に描いていた街並みとは少し違っていたが……そんな物よりもずっと美しいと、そう思った。


「一緒に来られて良かった。ヴィルには、ちょっと辛い思いさせちゃったかもだけど」

「お気になさらず。自分も、あそこで引き返さなくて良かったと……そう思います」

「……そっか」


二人は笑みを交わし、もう一度太陽の傾きかけた空に目を向ける。

青と茜色の混ざり合った色の上に浮かぶ桜の帝都は、何物にも代え難い宝物のように思えた。


「自分も……あの空の向こうへと、行ってみたかった」

「なんで過去形なんだよ」

「今は貴方に仕えておりますが……自分は、『番犬』ですから。おいそれとこの地を離れるわけにはいかないのです」


そう言って、ヴィルは口元を覆うマズルガードに指先で触れる。

ハウンドの一族が、女王への忠誠を示すために自ら纏う枷。

それをヴィルが不自由に感じたことはなかったが……こんな風に諦めなければならないことも、多少はある。


それでも彼は……突然、自分の知らない世界が頭上に現れたあの日。

怯える人々の中で、わくわくと胸を躍らせたのは、今でも良く覚えていた。


「なぁヴィル。俺が行く所には、護衛として付いてかないといけないんだよな?」

「ええ、はい。」

「なら、ヴィルが俺の騎士のうちに、帝都に行けば良いんだ」


ヴィルはそんな一京の言葉に、目を瞬かせる。


「今は無理だけど。いつか……桜と霧が手を取り合ったとき。大使としての役割が終わるとき……最後に旅行に行くくらいは、女王様だって許してくれるだろ?」

「それは、つまり……」

「俺が連れて行くよ、ヴィル。綺麗なものとか、美味しいもの……俺が好きな帝都のこと、一杯教えたいから!」


そう言って、満面の笑みを浮かべる一京。

……彼はまるで、空を自由に泳ぐ鳥のように自由に見えた。


少しの間、ヴィルは呆然としていたが……ふと視界が潤んでいる事に気づき、慌てて手の甲で目元を拭う。

物心付いてからはほとんど流した覚えのない涙が溢れ、ヴィル自身が戸惑いを隠せない。

……どうやら空に憧れ続けてきたヴィルは、己でも気付かぬ絶望を抱えていたようだった。


「何だよ、泣くほど嫌がる事ないだろ〜?」

「そ、そういうわけでは……」

「うそうそ、冗談だって」


冗談めかした一京が、大きな背中を手で優しく摩りながらその隣へと寄り添った。

一京は、微かに聞こえる鼻を啜る音と嗚咽には気付かないふりをして、ゆっくりと降りてゆく夜の帷を眺める。


「だからその日までよろしくな、ヴィル」

「……はい」


ヴィルが落ち着くのを見計らって、一京はそう声を掛けた。

気恥ずかしそうにしながらも、ヴィルはそれに頷いて見せる。


「きっと、ここだ」

「ん?」

「自分にとっては……貴方の、ケイ様の隣こそが。桜の帝都に一番近い場所なのだと、そう思います」


ヴィルの言葉に、一京は「なんだそれ」と少し照れくさそうに笑った。


「ま、先の話だからさ。今日のところはこのままパーッと飲みに行こう!」

「……余り羽目を外さないで下さいね」

「大丈夫!潰れてもヴィルが居るし!」

「はぁ……」


そうと決まれば、と言わんばかりにヴィルの手をぐいぐいと引き、歩き始める一京。


「ちょっと待って下さい」

「やだ!今俺、超良い気分なんだもーん!」


ヴィルの言葉に振り返り、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。

それを見て、ふとヴィルは足を止めた。

明らかに様子の違う彼の様子に、一京も手を引くのをやめて首を傾げる。


「……ヴィル?」

「い、いえ。何でもありません」

「そうか?」

「はい。……行きましょう」

「お、おう……」


先程とは一転、ここが高所であることを忘れたように足早に階段を降り始めるヴィルと、少し遅れてそれに続く一京。

ヴィルは、とくとくと温かく脈打つ胸に困惑を隠せないままに、時計塔の螺旋階段を降り続けた。

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桜に一番近い場所 はるより @haruyori

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