3
日が昇り始める前の街は、静まり返っていた。空気は湿気を帯び、霧が視野を狭めている。
いつになく早起きした黄雲は、あくびをしながら街を囲う城壁の上を歩いていた。ただ歩くだけでは飽きてしまうので、たまに森の方に石を投げて音の違いを楽しんでいる。木や石にぶつかれば鋭い音がし、土の上に落ちれば鈍い音がし、草の塊に当たれば音がしない、といった具合だ。
黄雲が街の最南端にある物見櫓の前に来たところで、白い子供の龍が姿を現した。
「おお、おまえも朝が早いな」
龍は空を仰ぎ見た黄雲の背後に回りこむと、襟首を咥えた。そのまま強く引っ張るので、黄雲は抵抗する間もなく後ろに倒れこんでしまう。
その時、黄雲の頭があった所に矢が飛んできて、物見櫓の柱に突き刺さった。黄雲は薄ら寒い思いをしながら、頬に顔を寄せてきた龍の頭を撫でてやる。
「良い子だ。お手柄だぞ」
矢は黄雲を襲った一本だけで、後続は無かった。矢の軸は太く、よく見ると細かな字が並んでいる。
『黄雲は、私が潰す』
黄雲は口の端を上げると、立ち上がった。郭義は今も、森のどこかで黄雲の様子をうかがっているはずだ。黄雲は城壁に手をつくと、森に向けて顔を突き出した。
「上等だ、郭義。貴殿の宣戦布告、しかと受け取った」
城壁を一つ叩いた黄雲は、踵を返して高楼に向かう。黄雲を心配したのか、龍は彼の腰の辺りにまとわりついて離れようとしない。
「気持ちは嬉しいが、殿に見つかると遊ばれるぞ。後で行くから、部屋で待ってろ」
黄雲が白い背を撫でると、龍は不満そうに一声鳴いてから三階へ登っていった。
「あいつは、いつまで懐いてくれているのやら」
黄雲は溜め息を吐くと、大広間に足を運んだ。大広間は薄暗く、閑散としていた。軍の配置が完了しているようで、残っているのは年老いた軍師が二人と陸越だけだった。劉立は黄雲に従って動いているはずなので、今の李洪は一人でいることになる。
黄雲は首を傾げながら、陸越に近付いた。
「陸将軍。殿は、いかがなされました?」
「それが、外の方に」
黄雲が陸越の視線の先を追うと、李洪は外廊下に一人で座っていた。本来なら、彼の向こう側には手すりがあるはずだが、今は矢避けの壁が打ち付けられている。しかし、その壁は大広間の前にしかないので、冷たい風は変わらず黄雲の元まで届いていた。
黄雲が目を凝らすと、李洪の前に碁盤が置かれているのが見えた。
「何を考えていらっしゃるのだ。あなた達も、なぜお止めにならない?」
黄雲は、厳しい視線を陸越に送った。陸越は、逃げるように目を伏せる。
「申し訳ないが、黄軍師の思い通りには事が運ばぬかもしれぬ」
黄雲は鼻を鳴らすと、回廊に足を踏み出した。彼に気付いた李洪は振り返ると、笑顔で手招きをした。
「さあ、公翼。勝負をしよう」
指で碁盤を叩く李洪に、黄雲は眉をひそめた。
「今、ここでですか?」
「なんじゃ、逃げるのか?」
「昨日も申し上げましたが、連戦全勝の私に、逃げる理由などございません。戦況によっては勝負を取り止める、ということで、よろしいですか?」
「分かった分かった。しかし、昨日も言ったが、軍師は他におるからな。公翼の出番は無かろう」
李洪が軽くあしらうように手を振り、黄雲がわずかに口を尖らせたところで、鐘が鳴り響いた。最も南にある城門に、敵が押し寄せてきたのだ。城門から高楼までは距離があるが、のんびりとはしていられない。
黄雲は碁盤の前に座ると、考える間もなく白い石を置いていく。
しばらくして、遠くの方で木の柱が崩れ落ちる音がした。
「物見櫓が、やられたようですが」
物見櫓は街の中にいくつか建っているが、鐘が鳴ってからの時間を考えると、郭義の矢が刺さった物見櫓に違いない。向かいに座る李洪の耳にも同じように聞こえているはずだから、勝負は中止になるだろう。黄雲は、息を吐いた。
ところが李洪は口を開くことなく、黒い石を置いた。黄雲が、間髪いれずに白い石を置く。小さく鈍い音が三度したかと思うと、激しい破壊音が黄雲の耳に届いた。
「城門が壊されたようですが」
それでも李洪は焦れることなく、黒い石を置いた。黄雲が、すぐに白い石を置く。
いつの間にか黄雲の耳は、馬の嘶きと軍勢の声を捉えるようになっていた。矢避けの壁に、矢が突き刺さる音がする。黄雲は早く劉立に合図を送りたかったが、李洪は一向に「止める」と口にしない。
黒い石が置かれる。白い石を置く。
矢避けの壁のおかげで、李洪と黄雲がいる空間だけが平和だった。
しかし、高楼に飛んでくる矢の本数は、確実に増えている。白い石を握る黄雲の掌が、汗ばむ。黄雲の後方にある部屋の中から、陶器が割れる音がした。堪らず彼は、立ち上がりかける。
だが、李洪が黄雲の手首を捕まえて、それを阻んだ。黄雲が李洪を見ると、彼は黄雲を睨みつけていた。
「おまえは今、冷静か? それで、戦場の全てが見えるのか? 目の前の碁盤さえ、見えておらぬではないか」
黄雲は碁盤を見下ろして、息を呑んだ。黒い石が、白い石を追い詰めている。
「いかなる状況においても、軍師は物事を的確に判断できねばなるまい。この勝負、私の勝ちだ。この戦が終わったら、妹君を連れてまいれ」
李洪は、唇を噛む黄雲の両手を取った。
「これは、武器を扱う手だな。しかし、高楼を射られるとは、うちの軍師は不甲斐ないことだ」
黄雲の手を放した李洪は、ほほ笑んだ。
「公翼よ。今から、一矢を報いてみよ」
黄雲は李洪に頭を下げると、室内に入った。大広間には、既に陸越と二人の軍師の姿が無くなっていた。
黄雲は気にすることなく三階に駆け上がり、自分の部屋に入る。文机の上でおとなしく待っていた子供の龍が、黄雲の腰にまとわり付いてくる。黄雲は龍の背を撫でると、弓と矢を拾い上げた。
「劉将軍が、お待ちかねだな。弓を射るから、おまえは下がってろよ」
龍が文机の上に戻ると、黄雲は外廊下に出た。高楼の門前で、軍と流星団が争っている。
流星団は人数が多く、並び立つ屋敷のあちらこちらに散っていた。郭義の姿は、中央を走る太い通りの真ん中にあった。
「郭義―っ」
黄雲が叫ぶと、郭義は高楼の三階を仰ぎ見た。
黄雲と郭義は口の端を上げ、弓を手に持ち、矢をつがえる。矢を放ったのは、ほぼ同時だった。矢は空気を裂き、笛のような音が辺りに響き渡る。
郭義の矢は、黄雲の右下の壁に、音を立てて突き刺さった。黄雲の矢は、郭義の左肩に傷を作った後、地面に突き立った。
屋敷から飛び出してきた劉立が「お見事っ」と大きな声で口にしたのが、黄雲にも聞こえた。劉立は流れるような動作で、次々と賊を地面に転がしていく。
黄雲が劉立の活躍を見守っているうちに、高楼のあちらこちらで歓声が上がった。城門の向こうに、『李』と書かれた旗が揚がったからだ。
笛や太鼓の音が風に乗って、高楼まで流れてくる。あたかも李洪側の援軍が到着したように見せかけているが、実は森に潜んでいた黄雲の仲間が数人いるだけだ。彼等はただ、黄雲の「騒げ」という指示に従っているに過ぎない。挟み撃ちにあったと敵が驚いている隙に、劉立達に賊のすべてを捕獲させる計画だった。
ところが、郭義は戦意を喪失するどころか、いきり立った。彼は二本目の矢も、黄雲に向けた。肩に傷があるにも関わらず、矢は黄雲を目掛けて飛んでくる。転げて避けた黄雲の真上の壁に、矢が突き刺さった。
子供の龍が心配したのか、黄雲の傍に寄ってくる。
「馬鹿。来るな。危ないぞ」
黄雲が龍を手であしらおうとした時、白い大きな何かが上空の高い場所から降りてきた。
黄雲が立ち上がって見ると、街の上で巨大な白い龍が旋回していた。龍の体を伸ばすと、高楼から城門までの長さがあるだろう。街や将軍屋敷を覆う影に、人々は恐れおののいていた。
「龍を呼ぶ弓か」
黄雲は、自分を襲った二本目の矢を見る。しかし、龍木ではない。次いで一本目の矢を見下ろすが、これも龍木とは色が違っていた。
黄雲に敵意を向けていた弓の名手は、腰が引けた状態で龍を見上げている。近くには、黄雲が放った龍木の矢が突き立ったままになっていた。
「まさか、俺が?」
黄雲が巨大な龍に目を向けると、彼の隣りで子供の龍が嬉しそうに鳴いた。巨大な龍は、黄雲と子供の龍を見て、青い目を瞬かせる。
巨大な龍が低い音で喉を鳴らした瞬間に、黄雲は我に返って地上を見下ろした。
「劉将軍。今のうちに、捕縛をっ」
劉立は飛び上がると、部下を指揮して郭義達を捕らえ始める。流星団は巨大な龍の出現で我を忘れてしまっていて、抵抗することなく捕縛されていった。
すっかり力が抜けてしまった黄雲は、壁に寄りかかる。
「この龍、おまえの親か?」
子供の龍は一鳴きすると、黄雲の右肩に顎を乗せた。巨大な龍も、負けじと黄雲に鼻先を寄せてくる。巨大な龍が息を吐くたびに、鼻息で黄雲の後れ毛が舞った。
黄雲は口元を引きつらせながらも、二匹の龍の気が済むまで撫でてやったのだった。
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