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 部屋の外からする羽音に、黄雲は伏せていた目を開いた。そんな彼の目の前に、白い子供の龍が舞い降りる。龍の足には、薄汚れた布が結び付けられていた。黄雲は龍の背を撫でると、布を解いて広げる。

『明け方に、実行される。気を付けろ』

 黄雲は長い息を吐きながら、背を柱に預けた。李洪との碁勝負で無敗記録を更新してから、一日が経過している。のんびりしている君主に比べて、賊の動きは速かった。

「やれやれ、どうするかな」

 黄雲は起き上がると、文机に向かった。その傍らには、使いこまれた弓と矢が置いてある。元々は、黄雲の兄のものだ。龍を呼べる龍木という木で作られている。兄は、実際に何度か龍を呼び出したことがあった。

 しかし黄雲は、どうも大人の龍と相性が悪いらしい。龍を見るたび、咥えられたり尻尾で遊ばれたりするので、少し怖いくらいだ。土に叩きつけられて気絶してしまい、起きた頃には数刻分の記憶を失っていたことさえある。

 弓の腕の未熟さもあって、黄雲は龍を呼び出せない。それでも弓矢を捨てられないのは、兄の形見でもあるし、他に使い道があるからでもあった。龍木で作られた矢には穴が空いていて、笛の代わりになるのだ。

『笛の音がしたら、大きく騒げ』

 黄雲は墨が乾くのを待って、龍の足に布を巻きつける。黄雲が龍の背を叩くと、龍は一声鳴いてから空へと飛び立った。

 黄雲が龍を見送っていると、内廊下から呼ばわる声がした。劉立だ。黄雲が顔を覗かせると、彼は黄雲の目の前に立った。その後ろで、李洪が仁王立ちをしている。

「ずるいぞ。また伝書鳩を飛ばしていただろう。手紙を貰ったのか?」

 李洪は妙に鋭い時がある。黄雲は内心で、舌を巻いてしまった。

「その通りですが、あまり良くない報せです。ご覧になられますか?」

 黄雲が布を差し出すと、李洪は素直に手を伸ばした。

「外にいる者が、郭義の動きを掴んだようです。明け方には、門前に敵がおりましょう。ですから、ご忠告申し上げたのです。碁のお誘いにいらしたのでしょうが、遊んでいる場合ではございません」

「逃げるのは許さんぞ」

「碁では常勝の私に、逃げる理由などございません。街の大事に、何を仰っているのですか」

 黄雲は眉をひそめたが、李洪の顔には笑みが浮かんでいた。

「それでは、他の者に戦の準備をさせれば良かろう。この城には、公翼や郭義以外にも軍師はおる」

 李洪は将軍と軍師の名前をあげ、劉立に軍議を開いておくよう指示した。李洪があげた名前の中には、李洪や陸越はもちろん、黄雲の名前も無かった。

 劉立は黄雲に視線を送った後、頭を下げて去っていく。下げた両手を硬く握り締めた黄雲の肩を、李洪は軽く叩いた。

「勘違いするでないぞ。信用しているからこそ、傍に置いておきたいのだ。公翼には、一つ相談事がある」

 そう言われてしまうと、従うより他にない。黄雲が「分かりました」と小さく呟くと、李洪は急かすように黄雲の背中を押し始める。おかげで黄雲は小走りで、李洪の部屋に向かわなければならなかった。

 李洪の部屋は、四階にある。時折吹く風が、少し冷たい。二つ下の階では軍議が始まったのか、話し声がかすかに黄雲の耳に届いた。

「公翼よ。相談事なのだがな。私には、ぜひ懐に入れたいと思った人物がいるのだ」

 黄雲は白い石を打ちながら、目を丸くする。

「それは初耳です。どのような方なのですか?」

 李洪が、碁盤に黒い石を置いた。

「弓で龍を呼んで、騎乗できる男だ」

 黄雲は手にした石を指先で回しながら、眉を寄せた。

「それは、かなりの弓の名手ですね」

「公翼の部屋にも弓があるが、呼べないのか?」

 李洪の問いに、黄雲は手にしていた石を落とした。石は転々と床の上を走り、陸越の足元で止まった。黄雲は石のことなど気にも留めず、碁盤からも李洪からも目を逸らした。

「あれは、兄のものです。確かに兄は、龍を呼ぶ弓を扱っておりましたが、既にこの世の者ではありません。私は兄に弓を教えてもらいましたが、兄のようには扱えないのです」

「それほど難しいのか」

 眉を八の字にしている李洪に目を向けて、黄雲は頷いた。

「子供の龍なら、容易ではありませんが飼い慣らすことができます。しかし、大人の龍は警戒心が強く、よほど気に入った者でなければ言うことを聞きません。龍が住む山には、俗称で龍木という木が生えています。これを削って、弓と矢を作ります。矢の一部が笛の形状になっていて、弓が得意な者なら音を出すことが可能です。しかし、龍が魅了するほどの音を出すのが難しいのです」

 黄雲は新たに白い石を取り出すと、碁盤に置いた。李洪は、首を傾げている。

「ううむ、しかしな。私は確かに見たのだよ。川が氾濫した時、子供が流されてな。周りから『頭』と呼ばれていた男が、龍に騎乗して助けておった」

「『頭』って、賊の頭領のことじゃないですか。しかし、その話、どこかで……あ」

 李洪が置いた黒い石を見て、黄雲は短く声を上げた。明らかに下手な一手だ。黄雲は、まるで気付いていない李洪と碁盤とを、交互に見た。

「どうにか取り入ろうと、努力しているのだがな。どうも、うまくいかん」

「そうですか。じゃあ、後味は良くありませんが、弱みを握って脅してみるのは、どうでしょうね」

 黄雲が白い石を置くと、李洪は大口を開けた。さすがに気付いたらしい。

「あー、また私の負けだ」

 黄雲は陸越を呼ぶと、放る仕草をした。陸越が投げてよこした白い石を片手で掴んだ黄雲は、口の端を上げる。

「もしや、陸将軍の方がお強いのでは?」

 陸越は、え、と声を漏らした。李洪は、黄雲を睨みつける。

「馬鹿者。さすがに、あれよりは強いわ。姉上達には負けるがな」

 そこで李洪は、自分の膝を叩いた。

「おお、そういえば。下の姉上が、公翼に会いたいと仰っておられたぞ」

 黄雲も、これには面食らった。

「わ、私にですか?」

「どこかで公翼を見かけられたようだ。大変、気に入っておられたぞ。もしかしたら、公翼が私の義兄上になる日が来るかもしれぬな。そうしたら気兼ねすることなく、毎日でも碁を打てようぞ。そうなれば、私は嬉しい」

「碁なら、今でも毎日のように打っているではありませんか」

 李洪は良くても、黄雲には堪らない話だ。市井から来た黄雲では身分も不相応だし、周囲にどのような視線を送られるか分かったものではない。

 黄雲は制止の声を掛けるが、上機嫌な主は聞き入れない。

「姉上は少々気がお強いが、綺麗なお方だぞ。頭も良いし、楽もお得意だ。私は姉上に、幸せになって頂きたいのだ。姉妹がおれば、気持ちも分かろう。公翼には、姉妹はおらぬのか?」

「妹が一人おりますが」

 黄雲は横を向いて、小さく呟いた。李洪の耳には、しっかりと届いたらしい。

「それでは一つ、賭けをしよう。次の碁で私が勝ったら、公翼の妹君を連れてまいれ。その代わりに、公翼が勝ったら、姉上とは会わなくて良い」

 李洪の提案は、黄雲にとっては有利なものだ。黄雲は李洪に向き直り、姿勢を正した。

「その勝負、受けて立ちましょう」

 黄雲は、すぐにでも碁を打つ気になっていた。しかし、李洪は立ち上がると、廊下へと歩いていってしまう。

「まあ、そう焦るな。私は今から、軍議に顔を出してくる。公翼は、ここで寛いでおって良いぞ」

 李洪は陸越を引き連れて、行ってしまった。二人の足音は、すぐに遠ざかってしまう。残された黄雲は、周囲を見回した。

 軍議が開かれている大広間と同じくらいの広さがある室内。磨かれた床に、精巧な彫りを施された家具。

 改めて見ると、君主の個室に相応しい豪華な装いの部屋だった。金目の物が部屋のそこら中にあるというのに、家臣一人を残して立ち去る主の愚かさに、黄雲は眩暈を覚えた。

「こんな所で、寛げるわけないでしょうが」

 黄雲は、なるべく周囲に目を向けないようにしながら、碁を片付けた。そのまま足早に部屋を出ようとしたところで、劉立とぶつかりそうになる。特にやましいことはしていないのに身を硬くした黄雲に対し、劉立は笑い声をあげた。

「殿は、黄軍師がお部屋で寛いでいる、と仰せでしたが。私は、逃げ帰ると思っておりました。やっぱりですな」

 黄雲が恨めしげな視線を送ると、劉立は即座に笑うのを止めた。

「も、申し訳ございません。殿の仰せで、黄軍師のお手伝いに参りました。黄軍師にお回しできる人数がわずかばかりで、申し訳ないのですが」

 太い眉を八の字にして頭を下げようとする劉立を、黄雲は制した。劉立は申し訳なさそうにしているが、君主直属の軍を借りるなど贅沢な話もない。

「殿は先日、郭義を許すと仰せになられました。こたびの戦は、敵味方共に死者を出さないのが上策です。少数精鋭であたった方が、うまくいくかもしれません」

 黄雲が真っ直ぐに劉立を見上げると、彼の精悍な顔がほころんだ。劉立は黄雲より九も年上だが、表情がよく変わり、年齢よりも若く見える時がある。

 黄雲と劉立は外廊下に出ると、二人並んで見下ろした。高楼の真下には、将軍職の人間に与えられた屋敷が並んでいる。

「劉将軍は他の者と共に、屋敷の影に身を潜めてください。笛の音が聞こえたら、一斉に飛び出すのです。後は、敵を取り押さえてくだされば結構です」

 黄雲が口の端を上げると、劉立は戸惑いながらも頷いたのだった。

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