高楼の南面にある、外廊下からの眺めは最高だ。特に、最上階の四階が良い。眼下には将軍屋敷や、碁盤の目のように整備された街が広がっている。それらを囲う城壁と物見櫓の向こうには、深い森がある。更に向こうには、幾重にも連なる山脈が見えた。

 山脈からは、たまに涼やかな風が下りてくる。それに頬を撫でられるのが、黄雲は好きだった。今も、鼻歌を歌いながら廊下を歩いている。そんな彼の顔の両脇から、手が伸びた。鼻歌と足を止めた彼の首に、白い腕が絡みつく。

「こーうーよーく。遊んでたーもれ」

 白い腕の主は、間延びした声で黄雲の字を呼んだ。これが女性であれば、手放しで喜んでいる。子供相手なら、ほほ笑ましい。

 だが悲しいかな、相手は黄雲と同じ男で、同じ年齢で、国を治める大人物だった。おかげで、邪魔であるのに邪険にすることはできない。

「殿。こうも首に巻きつかれては、お相手すること叶いませぬ」

 黄雲の主である李洪は「そうか」と呟くと、素直に黄雲を解放した。改めて向き合うと、李洪は目尻を垂らして笑った。今年で十九になるとは思えない、緩みきった表情だ。それでも背丈は李洪の方が高いので、黄雲は悔しさを味わうのだった。

「それで、殿。今日は、いかがなさいますか?」

「うむ。今日は公翼と、隠れ鬼をしようと思うてな。公翼が鬼だぞ」

 黄雲が返事をする前に、李洪は賑やかな足音を立てながら行ってしまった。その後を、劉立と陸越という二人の護衛が追いかけていく。毎日のように高楼の中を駆け回っている李洪は、無駄に足が速い。彼の姿は、すぐに曲がり角の向こうに消えてしまった。

 半年ほど前、黄雲は山奥の街を治める城の門を叩いた。彼は、軍師という職を希望していた。

それなのに、城に入って一週間ほど経った頃には、李洪の遊び相手という地位が確立してしまった。同じ年齢の男というだけで、李洪は黄雲を気に入ってしまったのだ。黄雲が聞いた話によれば、李洪は同じ年頃の男兄弟にも幼馴染にも恵まれなかったらしい。

 黄雲が溜め息を吐いた時、背後から「黄軍師」と控えめな声がした。振り返ってみると、壁際に長身の男が立っている。

 彼は十日前に入城したばかりで、名は郭義、字を士仁といった。歳は、黄雲より二つ上。城の遥か南方の出らしく、たまに訛りが出る。黄雲と同じように軍師を希望して、城の門を叩いたらしい。幸運なことに、郭義は李洪に興味を持たれなかったので、他の軍師と共に部屋に篭っていることが多い。

そのため、李洪に付いて回っている黄雲は、郭義と四度しか話したことがない。更に言うと、郭義の方から話し掛けられたのは、これが初めてのことだ。

「益州の地図をお持ちしたのですが、後の方がよろしいでしょうか?」

 郭義の方から声を掛けたのは、黄雲が彼に益州の地理について詳しく聞きたい、と頼んでおいたからだ。日時の指定までしていた手前、黄雲からは断りづらい。

「せっかくいらして頂いたのですから、今お願いします。できれば説明ついでに、鬼役に付き合って頂けると、ありがたいのですが」

「構いませんよ」

 郭義は、快く応じた。しかし、目の奥に潜む暗い焔を、黄雲は見逃さなかった。

 この城にいる軍師や将軍は、緩みきっている。この城から他の土地へ通じる道は何本かあるが、どれも狭くて通行には時間が掛かる。他国から見ると、攻めるにしろ友好を深めるにしろ、労力ばかり食ってしまって益が少ない。だから、他国から侵略されることはない、と高を括っているのだ。

 ところが郭義は、血の気の多い人物だった。彼の意見に反対しようものなら、怒鳴り散らされて会議にならないらしい。更に、彼は筋骨がしっかりしていて隙が無く、目つきも鋭い。そのため、周りから浮いた存在となっている。

 それでも黄雲は、郭義と連れ立って歩いた。黄雲が地図を広げ、道の広さや山の形状など、次々と質問していく。それに郭義が、たまに地図を指差したり手振りを交えながら、応じていった。黄雲がどんなに細かい疑問をぶつけても、郭義は答えに窮することが無かった。

「いや、助かりました」

 二人が立ち止まったところは、三階の角地だった。北東側で薄暗く、人気も無い。黄雲の言葉が壁に響くほど、辺りは静まり返っていた。

 黄雲は地図をたたんで、懐にしまいかけた。しかし、懐の中に先客がいるのを思い出して、短く声を上げる。

「そういえば、郭軍師宛ての手紙を、お預かりしていたのですが」

 黄雲は手紙を取り出すと、郭義に手渡した。郭義は、さっそく手紙を開いた。

「私の部下が受け取ったようです。表に宛名が無かったものですから、少しばかり中身を拝見してしまいました。ご容赦ください」

 手紙に目を落としていた郭義が、顔を上げた。

「中身は、覚えておいでですか?」

「失礼ながら字が汚かったもので、誰宛てか判別するのも大変でした。ですから、賊が城を襲う時間、合言葉、賊の人数、頭領の名前くらいしか覚えておりません」

 黄雲があげたことは、手紙の内容のほぼ全てにあたる。目を見開く郭義に対して、黄雲は目を細めた。

「郭軍師は、ご存知ですか? 最近、軍師のまねごとをする賊が現れているそうですよ。まず誰か一人が、平和呆けしている城に潜り込みます。そこへ仲間が戦を仕掛け、程よいところで退散します。あたかも策を用いて退かせた、と見せかけるのです。最後に報奨金をたっぷりと頂いて、速やかに姿を消すって寸法なんですよ。おもしろいでしょう?」

 同意を求める黄雲に、郭義は顔を赤らめる。黄雲は舌なめずりをして、背後にあった引き戸を開いた。

「さあて、殿。見つけましたよ」

「遅いぞ、公翼」

 李洪が手加減なしで背中を叩いたので、黄雲は顔を歪めた。郭義は、更に酷い有様だった。眉間には深い皺を刻み、口の端は引きつり、こめかみには太い血管が浮かんでいる。

「貴様等、気付いていたのか」

「地図を指す時に、見えていましたよ。大きな傷跡が」

 黄雲は左手を挙げると、手首を指し示した。

「左手首に傷があり、益州に詳しく、南訛りがある男といえば、流星団の頭領しかいません。各地で略奪を繰り返したあなた達は、このような山奥でさえ名が知れているくらい、有名になり過ぎました。今更、詐欺師などに転向できるわけがありません」

 郭義は隠し持っていた小刀を抜き放つと、黄雲に斬りかかった。黄雲が、素早く身を退ける。そこに、金属がぶつかり、擦れ合う音がする。劉立が黄雲の前に立って、郭義の刃を受け止めていた。

「殿。この男を、いかが致しますか?」

 さすがに、君主の護衛を勤める人物だ。賊の頭領の刃を受け止めながら、主に伺いを立てる余裕がある。

「こたびは許そう。武器を取り上げたうえで、城外に解放してやってくれ」

 劉立は郭義の刀を弾くと、己の刀で巻き込むようにして郭義から刀を奪ってしまった。

二人の護衛は、暴れる郭義を両脇から押さえ込んで、階下へと連れていく。郭義達の背中が見えなくなったところで、黄雲は項垂れた。

「あー、危うく斬られるかと思いましたよ」

「そうか? 私には、余裕に見えたぞ」

「劉将軍が、いらしたからですよ」

 ふうん、と口にしている李洪は今、護衛がいない状態だ。目の前で、賊と将軍の立会いを眼にしているだけに、さすがの李洪も不安だろう。そう、黄雲は踏んでいたのだが。

「それでは、今度は私が鬼だな」

 満面の笑みを浮かべる李洪の顔を、黄雲はまじまじと見た。

「いえ、作戦は終了いたしましたので。護衛もおりませんから、部屋にお戻りになられた方が」

「嫌じゃ。私は、もっと公翼と遊びたい。ほれ、逃げよ。数えるぞ。いーち」

 数字を聞いた瞬間、黄雲は走り出していた。条件反射というやつだ。意地になって走り続ける黄雲だったが、自分の部屋の前で足を止めてしまった。

 黄雲は部屋の中を通り過ぎて、外廊下の手すりに寄りかかる。彼にとって、李洪の遊び相手になって得したことと言えば、与えられた部屋の場所の良さだ。彼の部屋がある三階は、主だった重臣が暮らす階層だ。更に南側ともなれば、充分に街を見下ろすことができる。

 今の黄雲からは、小さくなった郭義が見えた。

「これにこりたら、もう来ないでくださいねー」

 黄雲は、大声で叫んだ。郭義は振り返ったが、すぐに走っていってしまった。その様子に、黄雲は肩を竦める。

「これは、かなりの恨みを買ったかな」

 手すりから離れた黄雲は、文机の前に座った。適当に墨をすって、筆先を突っ込む。

『詐欺の一味、逃がすこと許さず。策の駒として取り入れるが上策』

 紙の代わりに布きれに書き付けた文字は、にじんでしまって綺麗とは言い難い。それでも黄雲は「よし」と呟いた。

再び手すりに寄りかかった黄雲は、指笛を吹いた。すると、空から白い龍が現れて、部屋の中に飛び込んでくる。龍はまだ子供で、体長は黄雲の身長の半分ほどしかない。

 黄雲は龍の腹を撫でると、足首に布を結び付けた。彼が白い背中を叩くと、龍は青い瞳を瞬かせて飛び立った。白い体は縫うように空を泳ぎ、街の上を越え、森の中へと消えていった。

 龍を見送っていた黄雲の背後から、李洪の声が掛かる。黄雲が振り返ると、李洪は既に二人の将軍を従えていた。

「これ、公翼。おまえは、隠れる気が無いのか? 鬼の楽しみが減るではないか」

 李洪は頬を膨らませながら黄雲の横に並ぶと、空を見上げた。

「廊下で、白い何かが飛び立つところを見たのだが、気のせいか?」

 内廊下からでは、部屋を挟んででしか外を見ることができない。それなのに、李洪は目ざとい。

しかし、彼がどれだけ首を伸ばしても、既に飛び去った龍の姿を見る事はできない。黄雲は、苦笑した。

「伝書鳩ですよ。仲間に、手紙を飛ばしたのです」

「ほー、伝書鳩か」

「ええ。仲間が森の中に隠れておりますので、賊を逃がさぬよう手を打っておいたのです」

 李洪は眉を吊り上げると、掌で黄雲の額を叩いた。

「こたびは、私が許すと決めたのだぞ。余計なことをするでない」

「はあ、申し訳ございません。ですが、流星団は少々乱暴な者の集まりですので、それなりに対処された方が」

「いいや。この件は、これで終わりにせよ」

 額を擦る黄雲に対して、李洪は笑った。

「それよりも。公翼のせいで、隠れ鬼は飽きてしまったわ。お詫びに、碁の相手をせい」

「またですか。もう、どうなっても知りませんよ」

 溜め息を吐く黄雲に、李洪は首を傾げる。

「それは、碁か? それとも、流星団か?」

「どちらもですよ」

 黄雲は目を伏せると、こめかみを擦った。部下のことなど気にすることなく部屋を出ていく李洪の背を、黄雲は肩を落として追っていったのだった。

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