第53話 旅立ち
この船に自動運転機能が付いていることに気がついた大波田は、少しではあるが定期的に船室に入り休憩を取るようになった。夜も操縦は機械に任せ、船室の床で四人並んで眠ることにした。
船の上で過ごす二日目。天海は釣竿やガスコンロを発見し、釣れ立ての魚を焼いて夕飯にした。誰も網野の考えを本人に尋ねることはしない。しかし、網野本人はこれからどうするかを心に決めていた。
三日目の朝。
窓から差し込む朝日の眩しさに、網野は目を開ける。
横には胸を上下させながら寝息を立てる釣井がいた。しかし、反対側の毛布は抜け殻のように放置されている。その奥では天海が腕を組みながら目を瞑っているので、大波田がいなくなっているとすぐに気がついた。しかし操舵室に人影を見つけたので、どこへ行ったのかもすぐにわかった。
毛布を取り、網野も操舵室へ向かう。
「早いですね、大波田さん」
「もうすぐ着きますからね。もうMMSは見えてますよ」
と、彼は海岸にある建物を指差した。
高さはビル五階建て相当。海岸線に沿って建てられた横長の人魚保護施設・MMS。
船着場には所長と思われるスーツの男と他数名が並んで既に待機していた。鷹生が連絡をしていてくれたからだろう。
網野は天海と釣井を起こしに船室に戻る。二人が目を擦りながら、甲板へ出た時には船着場まであと数分のところだった。
船が止まると真ん中に立っていたスーツの男が深く礼をする。
「長旅お疲れ様でした。MMS所長の
背は高いとは言えず、腹はやや膨らんでいる。髪は多くが白髪だが、かなりの量が残っていた。優しそうな人相からは、これまでの努力も感じられるような人だった。
網野ら四人が船から降り、海崎の前に並ぶと、
「天海さん、釣井さん、大波田さん、それから網野さんですね。汐入さんから伺っています」
と、順に網野らの顔を見た。その様子からも彼の誠実さは感じられ、網野らも「初めまして」と挨拶をする。
「さあ、施設の中へ。ゆっくり羽を伸ばしてください。お連れの人魚もこちらの台車へ」
海崎は隣にいた台車を持っている男の背中を押し、網野らの前に出す。その台車にティナがいる水槽を載せろというわけだ。
それに対し、網野と大波田は再び船室に戻る。二人でティナの入っている水槽を持ち出すと、台車へ載せるためにMMSの飼育員らも手伝おうとした。
「ちょっと待ってください」
網野は差し出された手を声で止めた。ティナは何が起きたのかわからない、という様子で網野の方を見る。一方、釣井らは網野の意図を理解しているようだった。
「この水槽は、台車に載せなくていいです」
「え、それはどういう」
海崎の疑問に答える前に、網野と大波田は水槽を地面に置いた。網野がその水槽の前に屈み込むと、ティナも網野の方へ近寄ってくる。手をガラスに触れればティナもそれに重ねる、と彼女は網野の動き一つ一つに対応して答えていた。
「ティナ、お別れだよ」
「おわ、かれ?」
「うん、みんなとお別れ」
網野はティナが理解しやすいようにゆっくりと話した。そのせいか、声音が震えていることに網野自身も気がついていた。
「網野先輩……、それって……」
「その子を、逃すということかい?」
釣井が言い淀んだ先を、海崎が続ける。
「僕なりに考えた結果です。人魚化や人魚の生態、人間との関係性。ティナを調べればそれらの答えに一歩近づくのかもしれない。でもティナが傷つく可能性があるなら、僕は研究者の信念を捨てて、一人の人間としてティナを救いたいんです。そして……」
次は網野が言い淀む番だった。網野が自分で決めたことだ。その決心が揺らぐことはない。ただ、網野でもこの先を言うことには抵抗があった。天海、大波田、そして釣井。多くの人に支えられてきたからこそ、網野が出した答えが正しいとは思えなかった。
黙り込む網野に、大波田が声をかける。
「網野さん? そして、何ですか」
それでも続きを話せない網野に、大波田が顔の高さを合わせ、
「話してください。俺はあなたが何をしようとしていて、何に悩んでいるかなんとなく想像がついています。だからこそ、網野さんの不安を解消するためにも、俺たちが安心できるためにも、あなたの口から説明してください」
大波田の言葉は網野の心の底不覚に響いた。その通りだと思った。
黙っていては何もわからない。コミュニケーションを研究テーマにしていた人が何をしているんだと網野は自嘲した。
「そうですね」
と、網野は立ち上がり、共に戦ってきた仲間の方に顔を向けた。
「僕もティナと一緒に行くって決めたんだ」
網野のその言動に海崎を始めとしたMMSの職員らがどよめく。当然のことだと網野は思った。
「僕の体は人魚化が進行している。後どれくらい人間の形を保っていられるかわからない」
傷の周りにあった鱗は今や、首下まで上り、下腹部や背中まで覆われている。深刻という言葉では足りない速度だ。
「ティナを逃し、僕が地上に残ったところで何ができるんだろう。みんなに更なる迷惑をかけるだけかもしれない」
「迷惑だなんて、そんな!」
飛び出そうとする釣井を天海が制止する。
「ありがとう釣井。そう言うと思ったから悩んでた。僕のこれからする選択が正しいのか、ずっと悩んでいたんだ。だけど、僕がティナと一緒に行くという選択も迷惑をかけるに違いない。後始末を全て釣井や天海先輩たちに任せることになってしまう。釣井たちが迷惑なんて気にしないと言ってくれようと、どちらを選ぼうと、迷惑をかけることに代わりはない」
網野はゆっくりと深呼吸をし、高鳴る胸を落ち着かせる。
「僕は人魚が好きだ。ティナたちが住む海も。だからかな。人魚化してるって事実を知った時も、悲しくなかった。むしろ、よりティナたちのことを知れると思って興奮していた気がする。だから、どちらも迷惑をかけてしまうくらいならば、人魚化が進むにつれて僕の意思がどうなるかわからないなら。僕はティナとこの海を泳ぎ、ティナの見ている世界を見たいと思ったんだ」
釣井の足元のコンクリートに一つ、二つと黒い丸が増えていく。彼女はその染みを踏み潰すように一歩前に出る。
「釣井……」
「わかってましたよ。……何年、網野先輩と一緒にいると思ってるんですか。網野先輩が言いそうなことなんて大体予想つきますよ! ……でも、やっぱり面と向かって言われると悲しいじゃないですか……」
「止まらない」と、涙を拭いながら彼女は網野の方へ近づいてくる。
「別に、止めるつもりはないです。私は……、私は網野先輩の我儘を聞くの、好きですから……」
釣井は網野の目の前で立ち止まると、両腕を大きく広げた。
「最後に、私の我儘も聞いてください」
さすがの網野も彼女の様子から、何を求められているのかは理解していたが念の為に確認をしてみる。
「何をすればいい?」
「今までの私の働きに感謝を込めて、強く、とっても強く抱きしめてください」
網野は静かに頷くと、ゆっくりと彼女の背中に自分の両腕を回した。小さな彼女の為に少しだけ背を曲げる。そして釣井は背を伸ばして、網野に顔を近づけた。
「いつもの網野先輩だったら適当なこと言って躱すくせに、調子狂うじゃないですか」
「本当に感謝してるからだよ」
「嬉しいです。潮の匂いがして臭いですけど」
「海に落ちたっきり、お風呂に入ってないから」
釣井は深く息を吐くと、網野の背中を撫でるようにして腕を下ろす。網野もそれに気付き、釣井の背に回している腕を解いた。
「満足です。ありがとうございます」
網野は釣井に微笑むと、大波田と天海の方を向いた。
「大波田さん、天海先輩。本当にお世話になりました」
「網野さんの選択。俺は素敵だと思います。頑張ってください、っていうのは変ですかね」
大波田の苦笑いを天海が繋ぐ。
「楽しんでこい、がいいかな。網野に何か言葉を送るとしたら」
天海は釣井の横に並ぶと、網野の肩に手を置いた。
「どうせ、もう行くんだろ。元気でな」
「はい。ありがとうございます。天海さんも、どうかお元気で」
網野はティナの入っている水槽に手をかける。ゆっくりと傾けて水と共にティナを海へ出してあげた。
飛沫をあげて飛び込んだティナに続こうと、網野は釣井らに背を向ける。
しかし、そこで忘れ物を思い出した。
「天海先輩、もう一つ我儘言ってもいいですか」
と、網野は振り返る。
「何だよ。どうせ断れねえんだから言えよ」
「人魚化がもっと進んだ際、僕の意思がなくなる可能性もあります。でも、もし残っていたら一年に一度、この場所に戻ってこようと思います。会いに来てくれますか?」
「コミュニケーション研究の一貫ということならいいぜ」
天海は赤くなった鼻を人差し指で擦りながら答えた。
「良かったです。それじゃあ、後は頼みます」
「おう」
天海、大波田、釣井。最後に一人ずつ目を見ると、網野は助走を付けずにティナの横へ飛び込んだ。
半端な人魚化の信仰具合で、人間がどう海で生活ができるかわからない。
しかし海は自由だ。
どこまで泳いで行ける。
頬を濡らすものが、涙なのか海水なのか。自分で決めることができる。
「行くよティナ!」
網野の掛け声で、二人は頭を海面に突っ込む。
白い朝日のサーチライトが、二人の行先を明るく照らしていた。
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