第5章
第23話 協力者
天海がMMLに姿を見せなくなってから三週間。気づけば五月を迎えていた。
網野の研究発表会を八尾比が主催してくれることになったと船越から聞き、諸々が決まるまではティナの研究を続けておくように言われていた。
いつもなら、真っ先に天海に報告するところだ。それなのに彼は音信不通。今どこで何をしているのか、網野は見当もつかなかった。
MMLのエントランスを出て、すぐに崖下の砂浜も覗いてみる。やはり玲はいない。
「先輩、今日は例の子いました?」
「ううん」
後ろから網野を追いかけて来た釣井に網野は首を横に振る。
仕事は順調であるにも関わらず、網野はどこか心に小さな穴が空いているような気分だった。
「帰りましょ」
釣井からそう促され、海岸に背を向けた時だった。ジーンズのポケットに入れていたスマホが振動する。釣井もそれに気が付き、網野が気にせず出られるように彼と少し距離を空けた。
スマホを取り出し、着信画面を確認する。知らない番号だった。
そもそも網野に電話をかけるような人間は少ない。数少ない内の一人は網野の近くにいる。それに夜の七時半という時間。一体誰がかけてきていると言うのだ。
間違い電話かな、という予想を網野の第六感が否定する。
もしかしたら電話の相手は天海からもしれない。
淡い期待を抱きながら、応答ボタンをタップし、画面を耳に当てた。
『もしもし、光来?』
一歩前に出しかけた足が止まる。網野の異変に気がついた釣井も歩みを止めた。
聞き覚えがある声。そして網野のことを下の名前で呼ぶ人物。
網野の記憶の中で唯一該当する人物の名を口にした。
「……レイ?」
『そうだよ。覚えていてくれて嬉しいな。って、そんなことを話してる場合じゃない。時間がないんだ』
「いや待って、どうして僕の電話番号を……」
『悪いけど本当に時間がないんだよ。色々落ち着いたら質問に答えるから、今は僕の言うことをしっかりと聞いてくれ』
「……わかった」
スピーカー越しでも、心から焦っている様子が伝わってくる。網野は黙って言う通りにすることにした。
『今日の深夜四時。海王会によってMMLが襲撃される』
「は?」
『なるべく平静を装って聞いてくれ。僕は組織を裏切る人間だからバレたらマズイんだ。いいか、奴らの目的は君の人魚だ。とにかく今は人魚を守ることに全力を注ぐんだ。いいね?』
「ごめん、本当に何言ってるかわからない」
襲撃? 人魚を守れ? どういうことなのだ。網野の脳は情報の処理が追いついていなかった。
『光来の気持ちはよくわかる。とにかく今は僕の言うことを信じて。あと、このことはくれぐれも他言無用だよ。今夜宿直の飼育員・事務員は海王会の一味だ。彼らにバレれば、どんな手を使われるかわからない。逆に奇襲するんだ』
「海王会? 逆にって、え?」
「直前に伝えることになって本当にごめん。でもそろそろ電話切らなくちゃ。最後にこれだけ。僕は光来の味方だから」
彼はそう言い残すと一方的に電話を切った。それと同時にゆっくりとスマホを耳から離す。
海王会という知らない言葉が出てきたり、奇襲という日常生活では聞き馴染みのない言葉が出てきたり。それに玲は一体何者なのか、と網野は考えるか電話で伝えられた情報だけでは到底予想できない。
しかしよく理解できないとしても、MMLが襲撃されることやティナが狙われていることが本当ならばかなり緊急事態と言えた。
釣井が心配そうな顔で網野を見つめていた。
大切な後輩だ。彼女を危険に晒すわけにはいかない。そう網野は考えた。仮に自分に何かあった時も、ティナを託せる人がいなければ困る。絶対に彼女には黙っておくべきだ。
手に持ったままのスマホの画面で時刻を確認する。この後は釣井と夕飯を食べに行く予定だった。今引き返すか。しかし言い訳はどうする? 忘れ物、などと言えば彼女はついてくるか待つかだろう。それならばこのまま食事に行き、駅で別れることにしよう。それならば釣井もさすがに先に帰るだろう。幸いにも襲撃は深夜四時。十分とは思えないが、釣井を無事に家に返す時間はある。
「ごめん、行こうか」
スマホをポケットに戻し、釣井に横に戻る。彼女を不安にさせないよう、なるべく笑顔を作ったつもりだったが、
「何かありました?」
と訊かれてしまう。変に取り繕ってボロが出れば意味がない。網野は簡潔に答えることにした。
「ううん。何も」
そう考えても、網野にとっては至難の業だった。既に玲の話で頭が一杯であるのに、釣井に悟られぬよう努めなければならない。食事中も釣井の話は全く入って来ないし、楽しみにしていた天丼も味が全然わからなかった。
そうこうしている内に、駅に辿り着く。ホームに上がり、網野は用意していた台詞を口にした。
「あ、しまった。研究室に忘れ物してきた。ごめん、取りに帰るから釣井は先に帰ってて」
釣井が「私も行きます」などと言い出す前に立ち去ろうとしたが、
「大丈夫ですか?」
と、釣井が網野に尋ねる。
予想外の言葉に立ち止まり、振り返らずに行く予定だったが釣井の方に向き直った。そして今できる限り精一杯の笑顔を作る。
「大丈夫」
網野の答えに、釣井は深く溜息をつく。
ホームに電車が入ってくる。黄色い線より内側に下がるよう、アナウンスが響き渡る。
釣井は網野との距離を縮め、瞬きせずに網野の目を見つめた。
「大丈夫なら良いです。網野先輩のこと信じてます。でももしも、もしも大丈夫じゃなかったら、いつでも頼ってください。私、先輩のために頑張りますから」
潤いがあるその目はいつもと違った。力強い目だと思った。緊張が解れた気がし、網野は頷く。
「ありがとう」
釣井の顔にいつもの笑顔が戻ると、彼女は手を振りながらホームに来た電車に乗り込んだ。網野はすぐに立ち去らず、その電車が発車するまで待っていた。さらに発車した後も、車両が見えなくなるまでホームに立ったままだった。
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