第9話 有名人

 二人は再び一階のレストラン街に戻り、パスタのチェーン店に入っていた。特にパスタを食べたいというわけではなかったが、他の店に比べて空いていたのだ。見知らぬ店が空いていれば味を心配するところだが、有名なチェーン店なのでそれも必要ない。


 通路が見える窓側の席に通された二人は注文を終え、この後の予定を話そうとすると店の外、とりわけエントランスから騒がしい声が聞こえた。


「休日ですし、色んな人がいますね」

「そうだね」


 網野は気にせず料理を待とうとしたが、ふとある言葉が耳に入ってくる。


「人魚は脅威だ! 今すぐ駆逐すべき! MMLに出資しているようなこんな会社もいらないんだ!」


 狂ったように叫ぶ、男の声。内容からすぐに反人魚派の人物だとわかる。人魚好きとしては聞き逃せない言動だが、多様化が求められる社会だ。できるだけ無視しようと網野は努める。


「MMLに出資って、どういうことですか?」

「ん? ああ、そのままの意味だよ。MMLが設立されるとき、ここの親会社セイレーンがスポンサー企業になってくれたんだ。人魚にゆかりのある会社だからってね」

「ああ、なるほど。セイレーンだから」

「その通り」


 網野が簡単な説明をすると、また別の男の声が外から聞こえてくる。


「こら! 君何してる!」

「おい、やめろ!」


 おそらく警備員か、その辺りの人物が来たのだろう。次第に騒動も収まり、店の外は今まで通り活気のある雑音に戻った。


「それにしても、MMLの人間とは思えないな。セイレーンがMMLに多大な出資をしてくれてるのは周知の事実だと思ってたけど」


 釣井がハリセンボンのように頬を膨らませる。


「何か天海先輩にも似たようなこと言われたような……。わ、私、本当は知ってるんですよ! 網野先輩が知っているかどうか試したかっただけです!」

「釣井が知ってて僕が知らないことなんてないよ」

「そんなこと……ないです」


 突然威勢がなくなった釣井を網野は疑問に思った。料理が運ばれてくると一瞬で釣井の顔に明るさが戻ったので、網野は先程の疑問は気のせいだと思うことにした。


 テーブルに運ばれてきたパスタは釣井が目を輝かせるのも納得するくらい美味しそうだった。白い皿に綺麗に盛り付けられ、トマトソースの赤い光沢が食欲を掻き立てる。そんな釣井が選んだトマト系パスタとは対照的に、網野の前にあるのはカルボナーラだった。これもまた美しくクリーミーな色合いで、お腹が空いているのも相まって口の中の唾液量が増えていた。


 網野はスマホを取り出す釣井の前に、フォークとスプーンを置いてやる。自分のも取り終え、


「いただきます」


 と、早速一口目を口に運んだ。クリームの味わいの中にペッパーの辛みがある。チェーン店の料理は冷凍という偏見があったが、それが合っているにしろ、合っていないにしろ絶品だと網野は感心した。


「ちょっとめちゃくちゃ美味しいんだけど……って」


 顔を上げると、釣井の手にはスマホが残ったままだった。


「まだ撮ってるの」

「なかなか上手く撮れなくて」

「僕も美味しいとは言ったけど、ここチェーン店だよね。しかもパスタの。女子ってもっとおしゃれなスイーツみたいなもので、特別感のあるものがいいんじゃないの」

「網野先輩、ちょっと知識が一昔前過ぎます。それにこれ今季限定です。特別感あります」

「え、限定なの」

「メニューに書いてましたよ」

「見てなかった」


 よし、と釣井は満足気にスマホを鞄にしまい、ようやくフォークとスプーンを手に取った。


「いただきまーす!」


 釣井が持つフォークの回転速度がやけに早かった。網野は嫌な予感がして、すぐに伝えようとしたが遅かった。


「あ」


 しかし、釣井は自分に何が起きているかも知らずに麺の束を口に運ぶ。


「んー! 本当に美味しいですね。ここ久しぶりに来ましたけど、間違いなく記憶よりも美味しくなってます」


 満面の笑みを浮かべる釣井に事実を伝えるのは躊躇われるが、網野は時間が立って伝える方が悪いと判断した。


「ねえ、釣井」

「どうかしました?」

「シャツ、見て」


 流石の釣井もその一言で察したのか、顔から笑顔が消える。視線がゆっくりと自分が着ている白いシャツの方へ移動していき、次第に表情も青ざめていった。


「うっそお!」

「白いシャツなのにトマトソースのパスタなんか頼むからだよ」


 彼女の白いシャツの胸元には朱色の斑点ができていた。クリーム系のパスタだったならともかく、トマト系だったことにより目立たないとは言えない状況だった。しかも、胸元という体の正面部分。最悪という言葉がふさわしい。釣井は汚れた部分に指を乗せ、付いているソースを落とそうとする。


「ちょっと、そんなことしちゃ駄目よ!」


 と、突然一人の女性が網野の背後から現れた。


「それじゃあ汚れが広がってしまうわ」


 その女性は網野たちが座っている机にあった紙ナプキンを一枚取り、釣井のシャツの汚れている部分を叩き始めた。


 痩せた体、レース状の袖から見えている二の腕には骨が浮き出ており、随分と高齢であるように見える。服装は安いチェーン店には不似合いな豪華な紫色のワンピースだった。所々黒いレースや金の装飾もあるのでドレスに見えなくもない。一体何者なのだろうと、網野は訝しげに彼女の顔を覗いてみた。


「え、え」


 見たことのある顔だった。知り合いでという意味ではない。数々の本や映像で見てきた顔。


八尾比やおび丘尼子くにこさん、ですか?」

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