第10話 恋は盲目
「あら、やっぱりわかってしまったかしら」
「当然です! 本全部読んでます!」
しかし釣井は網野の熱について行けていない様子で、「この人誰?」とでも言いたげな顔をしていた。網野はそんな釣井に絶句しかけたが、MMLの人間が彼女を知らないままにする方が八尾比に失礼だと考え、
「お前まさか知らないのか。八尾比丘尼子さん! 海洋生物学者! 人魚第一発見者にして、人魚研究の第一人者!」
「え! すみません!」
釣井がテーブルの上のパスタを溢しそうな勢いで立ち上がる。そんな様子を見た網野はやはい知らなかったのかと頭を抱えた。一方の八尾比は口を手に当て、上品に笑った。
「いいのよ。若い子がこんなおばさんのことなんて、知らなくて当然よ」
「いえいえ、若いといえどMMLに所属しているなら知っておくべきことです」
と、網野は釣井を一瞥した。
「あら、やっぱりMMLの人だったのね。熱心な様子を見る限り、事務員や飼育員ではなく研究者かしら」
「はい! 今までは天海研究室で助手を務めていましたが、この春に独立して自分の研究室を持ちました! あ、申し遅れました。自分、網野光来といいます」
「網野君ね。天海君の助手を務めて、しかもその若さで独立するってことはかなり実力があるんでしょうに。名前を知らなくて申し訳ないわ」
「そんな、自分はまだまだです」
「自分で気が付いていないだけよ。あなたはきっと秘めているものがあるわ」
網野が感謝を述べようとする前に、間髪入れず釣井が口を開く。
「そうなんですよ! 網野先輩は人一倍人魚愛に溢れているんです!」
八尾比丘尼子という人魚界の巨人を前にあたふたしていたのに、突然熱が籠った話し方になった。人魚の話でこんなに熱くなっている釣井は珍しいので網野は少しだけ彼女に感心した。
「あなたも研究者?」
八尾比は礼儀正しく、釣井の方へ体を向ける。
「え、あ、はい! 網野先輩の助手をしています。釣井風花です」
「釣井さん。覚えたわ。あ、そうだ。あなたはまずそのシャツをどうにかしなきゃね。応急処置はしたから、染みの部分を化粧室で洗ってきなさい。少しだけでも変わるはずだわ」
「わかりました。ありがとうございます!」
慌てているのか、釣井は三回ほど八尾比に頭を下げながら化粧室へ向かった。
「せっかくだし、隣の席で食べてもいいかしら」
と、八尾比が隣の空いてある二人席を指し示した。それに対し網野は「はい」と即答する。迷う理由なんてなかった。あの八尾比丘尼子と食事ができる機会なんて滅多にない。いや、滅多どころではなくないのが当たり前だ。釣井はもしかしたら嫌がるかもしれない。その時はお詫びとして彼女に何かを買ってあげようと網野は考えた。
八尾比が自分のパスタを持ってきて席に着く。海老や貝が入った海鮮パスタだった。
「網野君、愛されているのね」
「え、どういうことですか?」
八尾比の言葉の意味がわからず網野は思わず聞き返してしまう。
「彼女、釣井さんに」
愛されているは少し違うなと感じながらも、網野は言葉を探して答える。
「迷惑ばっかりかけていますけど、文句も言わずについて来てくれているのはありがたいなと思います」
「恋は盲目……」
と、またもや網野が理解できないようなことを八尾比は漏らした。理解できないだけではなく、何か誤解をされているかもしれないと感じた網野は素早く訂正を入れる。
「恋なんてしていませんけど」
「しているわ。あなたは人魚に」
それはあながち間違っていないのかもしれないと思ったとき、幼い頃溺れた網野を救ってくれた人魚のシルエットが彼の脳裏に浮かんだ。続いて、ティナの姿もその記憶の映像に重なって浮かび上がる。
気がつけば鳥肌が立っていた。そんな奇跡はありえないだろう、と網野は自分に言い聞かせた。
「八尾比さん! ありがとうございます! 全然目立たなくなりました!」
シャツを見せつけるように無い胸を突き出し、釣井が軽やかな足取りで帰ってきた。彼女の言う通り、遠目から見ても目立つような汚れはなくなっており、近くで目を凝らすと発見できる程度のものにもなっていた。こんな応急処置方を知っているなんて、さすがは人魚研究の第一人者。自分の研究範囲以外の知識も豊富だ。
「いいのよ、そのくらい。私は特に何もしていないんだから」
と、彼女は謙遜する。
釣井が自分の席へ戻ると、八尾比が再び口を開いた。
「そう言えば、あなたたちやっぱりMMLの人だったのね」
「やっぱり、とは?」
釣井が麺を頬張りながら首を傾げる。傾げているのがシャツに付かないようにしているためかもしれないが。
「実はさっき、反人魚派が暴れていたときに、あなたたちの会話が聞こえてきてね。それで気が付いたのよ。研究者かはわからなかったけど、親近感が湧いていたの」
「わ、その時にはもう気がつかれていたんですね」
「そうなの。ごめんなさいね。一方的に」
お詫びと言っては何だけれど、と八尾比は鞄に入っていた茶封筒を手に取り、中に入っていた紙を二枚抜き出し網野と釣井の前に出した。
「今度、私講演をするんだけれど−−」
「え! これって人魚学会の重鎮達しか参加できないものじゃ……あ、すみません」
チケットの文字列を見ただけで、彼女の言う公演がどんなものか網野にはわかってしまい思わず声量が上がる。そして、八尾比の話を遮ってしまったことを詫びた。
「いいのよ。で、このチケットだけれど、ちょうど二枚余っていて。これも何かの縁だしあなた達が貰ってくれないかしら」
「いいんですか!」
網野のような熱心な人魚愛好家にとっては願ってもない物だった。しかし一般人に毛が生えた程度の興味しかない人にとってはそうでもない。例えば釣井がその一人で、現に少し面倒くさそうな顔をしている。
「ぜひ。二人でおいで」
八尾比は言い終えると、釣井に向かってウインクをした。何かに気が付いた釣井は急に顔がパッと明るくなる。網野に忙しい顔だなと思われているのなんて知らずに、釣井は二枚のチケットを手に取った。
「では遠慮せずにいただきます! ありがとうございます!」
その後、八尾比はなんと二人のご飯代までも出してくれた。網野は尊敬する存在が人間性までも素晴らしかったことを知り、その感動で思い出しかけたものを再び忘れるのであった。
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