第4話 波乱
網野と釣井はこの声に聞き覚えがあった。だからこそ余計に、声がする扉の方を振り返るのが嫌だった。
しかし相手は上司。このMMLの所長。
「何だその顔は。それはこちらがすべき顔だが?」
いつものことだが不機嫌。随分とテカリのあるオールバックは彼のトレードマークだ。流行りのオジサン俳優がその髪型をしていればきっと似合うのだろうが、彼がするとただのゴロツキにしか見えない。
「全く。水浸し、散らかった掃除道具。随分と汚い研究室だ」
眉間に皺を寄せたまま船越は断りなく研究室に入り込み、網野の椅子に勢いよく腰を下ろした。
「船越所長、どうされました?」
「どうされました? そんなこと訊く前にすることがあるだろう」
船越の言動に網野と釣井は目を合わせる。彼は何を望んでいるのか、二人には検討がつかなかった。
「私たちは何をすべきなのでしょう?」
釣井は腰を低くし、不自然なくらいに恭しく船越に尋ねる。しかし彼はそんな釣井を睨みつけると、そのまま黒目を網野の方に向ける。
「お前は後輩にどんな教育をしているんだ? もういい。網野、お前がやれ」
「僕にやれと言われましても、僕だってわからないです」
「何だと?」
「天海先輩から特にそういったことは教わっていません」
「人のせいにするな! 天海が教えなかったのならば、自分から教えを乞うのが当たり前だろうが!」
知らないものは自分の頭の中にないのだから、そもそもそれについて教えてもらうという発想が出るはずないだろう。網野はそう考えたが、それを口にするのは火に油を注ぐだけだと思い直し、心に留めておくことにした。
「上司が来たら、すぐにコーヒーか茶くらい出せ! それくらい常識だろう!」
「申し訳ありません。まだこの研究室用のケトルを購入していないのです。良ければ自販機で何か買ってきますけど」
網野は口調が無意識に攻撃的になっていることに自分で気がついていた。それはもちろん釣井もだが、彼女は注意しなかった。彼自身も止める気はなかった。むしろ、そうでもしないと理性が保てないのだ。今すぐ彼に飛びかかりたい感情を抑えるにはこれしかない。
「はあ? もういい。新たな研究室が作られたら所長が挨拶に来ることはMML内の人間なら知っているはずだ。どうして準備しておかない」
「知らなかったので……」
「お前と話しているとイライラする。俺はお前が研究室を持つことに反対だったんだ。あの人の進言がなければ、お前は今も天海の下で彼の手伝いをしていたんだぞ。第一、お前は天海と違って天才じゃないんだからな。彼の後輩だからと言って調子乗るなよ」
そんなことはわかっている。わかっているけれどこいつに言われると腹が立った。何度も色んな人に言われてきたことだが、気にしたことなどなかった。でもこの船越だけは本当に殴りたい衝動に駆られてしまう。
「……確かに、網野先輩は天海先輩ほど優秀じゃないかもしれません。でも網野先輩の人魚愛はMMLの中で一番です」
さっきまで腰を低くしていた釣井が立ち上がる。今までの恭しさはもうなくなっており、椅子に浅く座る船越を完全に見下ろす形になっていた。
「釣井、お前」
「この野郎、俺を見下ろすな!」
船越の右拳が引かれる。
その刹那、網野の反射神経が過去最速のスピードで反応した。
彼は片手で釣井を引き寄せ、もう片方の手で船越の右手首を掴んだ。
「何様だ!」
元々運動が苦手な網野だ。それ以上の反応はできなかった。船越に勢いよく手を振り払われ、網野は釣井に覆い被さるようにして床に倒れ込む。
「網野先輩!」
釣井が網野に駆け寄ると同時、水槽の中にいるティナが暴れ出した。彼女の動きに合わせて飛び出た水が船越や網野らに降り注ぐ。
「何だ!」
そのティナに気づいた網野は水槽の方に体を向け、
「ティナ! 落ち着いて。僕は大丈夫だから」
と、声をかける。その後もティナは暴れるが、もう一度網野が宥めると彼女は穏やかになった。
「研究者が研究者なら、その被験体も被験体だな。そして、網野。上司として忠告しておこう。自分の人魚に名前をつけるな。人魚はペットじゃなくて研究対象だ。人魚愛など気持ち悪くて仕方がない」
船越はそう吐き捨てると、濡れて乱れた髪を整え直しながら研究室を出て行った。
研究室内には二人の髪から滴る水の音だけが響く。ゲリラ豪雨が過ぎ去ったかのような静けさだった。
「釣井、大丈夫だったか?」
我に返った網野が床に倒れたままの釣井に手を差し出す。彼女は「大丈夫です」と答えながら彼の手を受け取り、滑らないようにゆっくりと立ち上がった。
「助けていただきありがとうございます。ちょっとかっこよかったですよ網野先輩」
「別に僕のは大した助けになってないよ。船越所長を追い返せたのはティナのおかげさ」
網野が水槽のティナに目を向けると、下半身の一部から血が流れ出ていることに気がついた。周辺の水が赤く染まっており、かなり酷い流血のようだった。暴れたせいで傷口が再び開いてしまったのだろう。
「ティナ、血が! 大丈夫かい? 釣井、早く大波田さんに救急バッグ持って来るよう連絡して!」
「わかりました!」
網野だって人魚の応急処置法くらい知っている。しかし知っているだけで手当できる道具は今ここにない。研究室を移動することは前々からわかっていたのだから、予め準備しておくべきだったと網野は自分の準備の悪さを嘆いた。
やがて水槽全体の水が赤く染まってくる。ティナは痛みが酷いのか、水底に項垂れるように倒れてしまった。
「大丈夫だ。ティナすぐに手当してあげるから。もう少しの辛抱だ」
「網野さんお待たせしました!」
「早く寄越して!」
網野は全速力で来てくれた大波田から救急バッグをひったくり、白衣を来たまま水槽に飛び込んだ。
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