学費と祈祷

 次の日、ラピスさんに連れられて、わたしはプロスパラス学舎にやってきた。

 場所はローザリアのだいぶ東側だった。わたしとラピスさんの家があるのは西寄りだから、中央政庁よりも東の方にはあまり来たことがない。でも東側も、街並みの様子は西側とあまり変わりがなくて、ほとんど花が散ってしまったライラックの並木と、薔薇ばらの蔓が這う白漆喰の壁が、大通り沿いに綺麗に並んでいた。

 プロスパラス学舎の建物は、そんな街並みの中でもひときわ大きくて、大通り沿いに立派に建っていた。さすがに中央政庁よりはだいぶ小さいけれど、王立治療院よりは大きくて、訓練場とだとどちらが大きいかわからない。


「驚いたか?」


 玄関前で、わたしはラピスさんの言葉にただ頷くしかできなかった。


「こんなに大きいんですね……お勉強してる人、わたしの他にもたくさんいるんでしょうか」

「そりゃあもちろん。だいたいは商人や職人の子供だが、騎士や兵士の子もよくいるぞ」


 話すわたしたちの横を、子供たちが大人に連れられて通り過ぎていく。小さい方は六、七歳くらい、大きい方は十二、三歳くらいで、みんな私よりずっと小さい。ほんのちょっとだけ恥ずかしくなる。


「じゃあ行くか。紹介状はオレの方で持っていく。学費はあるな?」

「それだけは絶対大丈夫です!」


 懐の手ごたえを確かめながら、わたしは声をはりあげた。

 大丈夫。スリに盗られたりしないように、ここまでずっと手で触って確かめてたから!

 ラピスさんが、わたしの手を引く。子供たちに混じって、わたしははじめて、プロスパラス学舎の門をくぐった。




 ◆ ◇ ◆




「今は、ちょうど学期の途中にあたります。編入は制度上は可能ですが、読み書きができないとなると授業を理解するのは難しいでしょう。ですので――」


 壁一面に本が詰まった部屋で出迎えてくれた塾長さんは、いろいろなことを説明してくれた。五十歳くらいに見える白髪雑じりのおじさんは上品で物腰柔らかくて、とても感じのいい人だ。でもほとんどの時はラピスさんに向けて話していて、わたしはただ横で聞いているばかりだった。

 なんとなく、居心地が悪い。お金を払うのはわたしなのに、お勉強するのもわたしなのに、どうしてラピスさんにばかりお話するんだろう?


「――六月の終わりまでは読み書きの習得に専念していただき、そこから他の講座に編入する形ではいかがでしょうか」

「私としてはそれでよいと思います。あとは本人が納得するかどうかですが……アリサ、大丈夫そうか?」


 急に、ラピスさんから話を振られた。


「……よく、わからないです」

「いまから六月までは読み書きの訓練をして、七月から他の勉強もする、って形にしたいそうだ。アリサはそれでいいか?」


 それは大丈夫。

 お勉強の進め方はそれでいいけど……でもやっぱり、納得がいかない。


「それで、いいですけど……でも、よくないです」


 言うと、部屋の空気がほんの少しぴりっとした。


「何か問題がありましたか?」

「ここまでのお話、わたしに何も言わないままで決まりましたよね。塾長さんとラピスさんだけでお話して……お金払うの、わたしなのに」


 塾長さんが首を傾げた。


「ラピス殿。あなたはこの子の親代わりではないのですか?」

「師匠なのは確かですが、今回入塾を希望したのは彼女自身の意志です。学費も彼女の収入から払うことになっています」


 塾長さんは目を何度もしばたたかせながら、わたしとラピスさんを交互に見つめた。

 わたしは懐から金貨を取り出した。ずっと肌身離さず身に着けていたせいで、すっかりあたたかくなってしまった西方デュシス金貨を、両手で持って塾長さんの目の前に差し出した。


「……ローザリアに来て初めて、わたしが自分で稼いだお金です」


 ほんとうはこのまま、ずっと持っていたい。わたしが五人も買えてしまうぐらいの大金、手放したくなんてない。

 でも、いまはもっと、ほしいものがあるから。


「王様には、おいしいものやきれいな服を買いなさいって言われました……でも、おいしいものを食べてもきれいな服を着ても、馬鹿は馬鹿のままなんです」


 金貨を乗せた掌が、ちょっと、震えはじめた。


「わたし、馬鹿でいるの、もう……いやなんです」


 ああ、だめだ、声まで震えてしまってる。でも、言わなきゃ。


「馬鹿にはわからないからって、お話してくれないのかもしれないですけど……でもわたし、馬鹿だからっていないことにされるの、もう、いやなんです」


 最後のほうは、涙声になってしまった。

 頬をぽたぽた、滴が落ちていく。

 顔を上げていられなくてうつむくと、顎を伝って熱い滴が床に落ちていく。

 ああ、なんで、わたし、こんなにみっともないんだろう。

 言いたいことも言えなくて、ただ泣いてるばっかりで。


「……アリサさん」


 塾長さんの声がした。同時に、やわらかい布が頬にあたった。


「大変失礼いたしました。あらためましてあなたへ、当塾の制度と学習内容についてご説明いたしましょう」


 わたしの涙をやさしい手つきで拭き取ると、塾長さんは目の前で深々と頭を下げた。


「そしてひとつ、私からお伝えしたいことがあります。あなたは決して馬鹿ではない。貴重な給金を知識のために投資するなど、決して愚か者にできる行動ではありませんよ。こうして勉学を志された時点で、あなたは既に世の多くの者たちより賢い」


 言って塾長さんは、わたしの手から金貨を取ると、うやうやしく捧げて持った。


「貴重な学費、確かに預からせていただきます。願わくは私たちが、あなたの意欲に見合う知識を提供できますよう」


 塾長さんはまた、深々と頭を下げた。




 ◆ ◇ ◆




 塾のきまりごと、これからの勉強の進め方、続ける場合の学費の払い方……いろいろなことを説明してもらった後、わたしはラピスさんと別れた。ラピスさんは中央政庁で用事を済ませた後、そのまま家に帰ると言っていた。


「今日からさっそく講義か。無理しねえ程度にがんばってこいよ、アリサ」


 ラピスさんはそう言って、背中を叩いて送り出してくれた。

 ……そう、入塾してすぐ、今からわたしはお勉強だ。塾長さんはもっと先からでもいいって言ってくれたけど、わたしからすぐにとお願いしたんだ。お金だけ払って待ってるなんて、心がざわついて仕方なかったから。

 プロスパラス学舎の奥には長い廊下があって、両側にいくつも木の大扉が並んでいる。貸してもらった小さな黒板と白墨チョークを抱えながら、案内の係員さんについて歩いていくと、それぞれの扉の向こうから講師の先生の声がいくつも漏れて聞こえてきた。

 わたしも、他の人たちと並んでお勉強するのかな……と思いながら、奥の方の小さな扉を開けてもらう。


「アリサさんです」


 係員さんの声に、部屋の中の人たちがいっせいに振り向く。

 いたのは全部で三人だった。上等そうなローブを着た三十歳くらいの男の人が一人と、麻のチュニックを着た十歳くらいの子供が二人。子供二人が座っている机の上には、わたしのと同じ黒板と、たくさんの文字が墨で書かれた木の板が広げられていた。板の端はすり減って、手の脂でつるつるになっていた。


「塾長から話は聞いています。まずは席についてくださいね。……皆さん、彼女が新しく加わったアリサさんです」


 ローブの人が言うと、疲れた目の子供たちが表情も変えずにうつむく。うーん、お辞儀をしているつもりなんだろうか。

 わたしもひとつお辞儀を返して、空いている席に座る。ローブの人が、皆と同じような文字の板を前に置いてくれた。


「はじめましてアリサさん。私はコリン・ベネット、ここで共通語を教えております。あなたが共通文字を読み書きできるようになるまで、しっかりと面倒を見させていただきますよ」


 どうやらこのローブの人が、先生らしい。

 笑顔でお辞儀をするコリン先生に、わたしもあわててお辞儀をした。


「新しい人が増えましたし、あらためて、はじめの祈りを捧げましょうか。アリサさんは手を合わせて、私の言ったことを繰り返してください」


 言われるままに、手を合わせた。


「女神サピエンティア、最も賢き者、文字と聖句の創り手、学問の守護者よ。我らは貴女に従う者なり。今日も我らに、貴方の恩寵のひとかけらを分け与えたまえ。新しき知識を与えたまえ」

「え、えっと……めがみ、さぴ……?」


 なにがなんだかわからない。手を合わせたままおろおろしていると、お祈りを終えたコリン先生がやさしく笑いかけてくれた。


「わからなければ、今は黙って手を合わせるだけでかまいませんよ。文字が読めるようになったら、『七神の聖句』もひととおり学ぶことになりますからね」

「あっ……は、はい……」


 あのよくわからないの、他にもたくさん覚えないといけないんだろうか。

 沈む心を、自分自身で叱りつける。


 なに弱気になってるの、アリサ。

 まだお勉強、はじまってもいないのに。

 あのお祈りの言葉も、賢くなるにはたぶん必要なんだよ。読み書きさえ覚えたら、きっとそんなにむずかしくない、はず。


「それでは授業に戻ります。引き続き、皆さんは三十音表の書き取りを……アリサさんもご一緒に」


 隣から、かりかりと白墨チョークの音が聞こえてくる。見れば隣の子供たちは、木の板に書かれた文字をひとつずつ黒板に書き写していた。一文字書いては消し、隣の文字を書いては消し……


「アリサさん。書き方がわかりませんか?」


 コリン先生が手元を覗き込んでくる。


「あ、だいじょうぶ……です」


 板のいちばん左上にある字を、見よう見まねで書き写す。でも、同じように書いているはずなのに全然似た形にならなくて、お手本はなめらかに丸っこい字なのに、わたしが書いたのはなんだかカクカクになってしまった。


「書き順を覚えるといいですよ。さ、ごらんなさい」


 コリン先生が白墨をとって、ゆっくりと黒板に滑らせる。

 わたしと全然違う順番で書かれた線は、とってもきれいに、お手本と同じ形になった。


「正しい順番を覚えれば、すぐに美しい字が書けるようになります。心配することはありませんよ」


 コリン先生は、とってもやさしく、笑ってくれた。




 ◆ ◇ ◆




 授業が終わった頃、太陽はすっかり低くなっていて、橙の夕陽に人の影が長く伸びていた。大通りを小走りに急いで、どうにか日が落ちきる前に家に戻ると、ラピスさんはもうだいぶ前に帰っていた。ラピスさんは窓際の書見台に座って、なにかの手紙を読んでいるようだった。

 ただいま、と声をかけると、ラピスさんは顔を上げてわたしの方を見た。


「塾はどうだった」

「あ……えっと」


 長かった授業を思い出しながら、わたしは言った。


「文字の読み方と書き方、いっぱい教えてもらいました……覚えられたのはちょっとだけですけど」

「そうか」


 ラピスさんは笑ってくれた。けどどこか、疲れているみたいだった。


「どんな字を覚えた?」

「えっと……あの」


 覚えられた文字は三つだけ。だけどここには書くものがない、ラピスさんに見せられない――

 そう思いかけたとき、書見台に乗っている手紙が目についた。

 今はまだ読めない文字が、たくさん並んでいる。その中に、浮き上がって見える文字が三つだけあった。

 三文字だけが、きらきら光っているみたいだった。


「……これです!」


 わたしは書見台に近づいて、三つの文字を指差した。


「アリサ……って、書いてありますよね。わたしのこと、書いてありますよね」


 ラピスさんは大きく目を見開いた。

 けれどすぐ、疲れたような、どこか寂しそうな笑いに戻ってしまった。


「そうか、よかったな……この調子でどんどん字を覚えれば、この報告書も読めるようになるのかもな」


 ラピスさんは声をあげて笑った。けどどうしてか、心から笑っているようには聞こえなかった。


「勉強もいいが、剣術の鍛練も怠るなよ。大きな戦が、近くあるかもしれねえからな」


 手紙を見ながらラピスさんは、何度も大きな溜息をついた。

 わたしのことは目に入っているのかいないのか、わからなかった。

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