五章 積まれた書物に希望を託して
褒賞と決意
街道の遠く先、お馬の背越しに石の城壁が見えた。
地平線の
「見えてきたぞ。ローザリアだ」
背で手綱を持つラピスさんが、教えてくれる。
「あっ、はい!」
あわてて答えると、かすかな笑い声が返ってきた。
「アリサ、声が寝ぼけてるぞ。肉の食いすぎで眠くなったか」
「あ、いえ……ええと、そんなことは――」
言いかけると、別の笑い声が交じってきた。クロエさんだ。
「あれだけ食べればしかたありませんわ。銀十枚分でしたっけ?」
「十二枚だ」
少しだけ悔しそうに、ラピスさんは言った。
「銀一枚で干肉三切れ、銀十二枚だから肉三十六切れ。流石にちょっと多かったかもな」
「糧食官から割高で買わなくても、ローザリアに戻れば半値以下ですのに」
「ま、そこはこいつの凱旋祝いだ。ちょっとばかり張り込むだけの価値はあるさ」
ラピスさんとクロエさんが話している。わたしは二人の話に入れなくて、ただお馬の背中に揺られながら、近づいてくるローザリアの城門をじっと見ていた。
ラピスさんもクロエさんもすごいな、と思う。
二人とも手綱で手が塞がっているはずなのに、銀貨とお肉の数をすぐに数えられる。わたしにはできない。小さな数でも指を使わないとわからないし、両手の指より大きな数はもうお手上げだ。
それに比べて……と思いかけて、わたしは頭を振った。
それ、もうやめよう。
強くなるんだ、って、誓ったばかりなのに。
頭をゆっくり振って、考えを散らす。
やめよう。できないことを数えるのはやめよう。きりがないから。
でもそうすると、代わりに何を考えればいいんだろう。
生まれてからずっと、わたしはなにもできない小娘だった。母さんが凍え死んでしまったときも、人買いに売られたときも、わたしはなにもできなくて、ただ震えて泣いているばかりだった。なにかできる人をうらやましく思うばかりだった。
なにもできなくて悲しい気持ち。
なにかできる人をうらやむ気持ち。
ずっとその二つが、わたしの全部だった。わたしの全部がなくなったら、わたしには何が残るんだろう?
ラピスさんとクロエさんは、相変わらず後ろで何かの話をしている。わたしにはわからない話だろうな、と思ってうつむくと、栗毛のお馬のたてがみが揺れていた。
ほんとうは、注意して聞いてみたらわかる話なのかもしれなかった。けど、わざわざ聞き耳を立てて確かめる気にはなれなかった。わたしはじっと下を向いて、お馬のたてがみをただ見つめていた。
◆ ◇ ◆
ローザリアの城門へ着くと、門番の衛兵さん二人が敬礼で出迎えてくれた。立派な石造りの門は、これも見慣れたもののはずなのに、出陣前とは違う景色に見える。出かけていたのは十日もないはずなのに、ずいぶん久しぶりのような感じもする。どうしてだろう?
「ご帰還は、万象の闘士様たちだけでしょうか?」
「はい、私たちは状況報告のために先に戻りました。司令官と『小隊』は、戦後処理のためしばらく戻らない予定です、すみませんけど」
クロエさんの言葉に、衛兵さんたちは無言で深く頭を下げた。その間を、わたしたちはお馬で抜けていった。
城門をくぐると、目の前にはなつかしいローザリアの街並が広がっていた。けれどライラックの花はだいぶ散ってしまっていて、紫の花は緑の葉の間にちらちら見えるだけになっていた。
白漆喰の壁に伝う蔓には、ところどころ紅いつぼみが見えている。あれが、ローザリアで一番綺麗だって話に聞く「
「ライラックが咲くまでには、戻るつもりだったのですけどねえ」
クロエさんの、軽い溜息が聞こえる。
「敵地での任務だ、そうそう予定通りにはいかねえよ。薔薇に間に合っただけいいだろ」
「ティエラには、ライラックの頃までに帰ると伝えてありましたからね……顔を見せたら何を言われるやら」
話をしながら、ラピスさんとクロエさんは馬を進めていく。
街の人たちが、ときどきわたしたちに手を振ってくれる。クロエさんはその時だけ話を止めて、きちんと手を振り返していた。たぶん、ラピスさんもわたしの背で同じようにしているんだろう。
クロエさん、笑うととてもやさしそうだなあと思いながら眺めていると、不意にとんとんと肩を叩かれた。
「こら、ぼーっとしてるんじゃねえぞ。おまえも万象の闘士なんだ、それなりの振舞はしろ」
道の右側を見ると、お婆さんと小さな男の子がこちらに向かって手を振っている。お婆さんは目を細めて顔をしわくちゃにして、男の子はまぶしいくらいに笑って、わたしの方を見ていた。
――ちゃんと応えなくちゃ。わたしも、万象の闘士なんだから。
口の端を上げて、目を細めて、一生懸命笑ってみる。なんだか、顔が引きつって疲れる。
なんとかそのままに保ちつつ、わたしはお婆さんたちに小さく手を振った。
お婆さんは更に目を細めて、ゆっくりとお辞儀をしてくれた。男の子は、ちぎれんばかりに手を振り返してくれた。
ふたりとも、誰か偉い人を見るときの目で、わたしを見つめてくれていた。
◆ ◇ ◆
中央政庁の
一礼してお部屋に入ると、王様はいつもの通り、部屋の左手側の大机に向かっていた。ラピスさんが声をかけると、王様はわたしたちの方へ向き直って、口髭を揺らして微笑んだ。
「よくぞ無事で戻った、万象の闘士たちよ。伝令からおおむねの概要は聞いている。このたびの働き、ご苦労だった」
「ねぎらいのお言葉、痛み入ります」
ラピスさんとクロエさんが、深々とお辞儀をする。私も一瞬遅れて頭を下げた。
大きな野太い笑い声が、部屋中に響く。
「……まあ、堅苦しいのはここまでだ。正式な報告は後ほどまとめてもらうとして、君たちが知り得たことを手短に頼む」
「何が知りたいのかを手短に頼むわ。三ヶ月も敵地にいれば、話すことは限りなくあるもの」
クロエさんが、急にくだけた口調になった。ちょっとびっくりしつつ、ラピスさんやティエラさん、ソフィーさんもそうだったなと思い返す。わたし以外の万象の闘士は皆、なれなれしく話せるくらいに王様と仲がいいんだろうか。
「ではひとまず三点。我が国領内での『人狩り』に、グレモス王国は関与しているのか。グレモスと
「流石に国王ともなると、知りたいのは大局なのね。山賊崩れのならず者が雇った一介の食客には、ちょっと答えられないことばかり」
「だがクロエ、君はただの食客ではないだろう? 優れた戦士は、足跡一つからでも多くの情報を引き出すものだ」
顔を上げると、言葉を投げ合うクロエさんも王様も、うっすらと笑いを浮かべていた。わたしにはよくわからないお話だけれど、何がそんなに楽しいんだろう。
「まいったわね。……わかる範囲で答えさせてもらうと、一つ目の問いは『そのとおり』。西方国境のうち、中央街道よりも北側での人狩りは、多分にグレモスが絡んでいるわ」
「証拠は出せるかね?」
「今回、グレモスの紋が入った装備品を多数押収したわ。小隊が持って帰ってくる予定だから、確かめてちょうだい。グレモスへ使者を立てて押収物を突き付ければ、おそらく言い逃れはできないはず……二つ目の問いだけれど、私はあくまで食客の立場で潜入していただけだから、確かなことは分からない。でも、グレモスと
流れる水のように、クロエさんと王様はよくわからない話をしている。
使ってる言葉は、たぶんそこまでは難しくない。落ち着いて考えたらわかるかもしれない。でも二人の言葉は本当に速くて、わたしが意味を呑み込めないうちにどんどん先へ行ってしまう。
やっぱり、頭のいい人は違うんだな――と思いかけて、思いとどまる。
いつもの癖だけど、本当にやめよう。そんなこと考えたって、わたしが賢くなれるわけじゃないんだから。
「――ところで、君たち」
急に、クロエさんとのお話が止まった。王様がわたしの方を見る。
「話は変わるが、今回の給金についてだ。正式な支給分は、いつも通りに出納長から受け取ってもらうことになるが……それとは別に、個人的な褒賞を用意した」
王様は、机の引き出しからキラキラ光る何かを取り出した。
十字の星形を二つ重ねた紋章が刻まれた、金色に光るコインだ。
銀百枚の価値があるお金。わたしの値段――銀二十枚より、ずっと値打のあるお金。
「アリサ、これは君のはじめての武勲に対する褒賞だ。受け取るといい」
……え?
王様、今なんて言ったの?
「おお、良かったなアリサ! 気前の良さは相変わらずだな、国王陛下」
ラピスさんが肩を叩いてくれる。クロエさんがにこにことこっちを見てる。
えっ、でも……あの、その。
「何の見返りも期待せずに金を撒くほど、俺は愚かではないぞ。人は期待をかけられた分だけ育つものだ。この金貨には、彼女の成長への投資も含んでいる。……さて、アリサくん」
そこで一度言葉を切って、王様はわたしの目をじっと見つめた。王様の目はとても力強くて、ぴくりとも動かずに見据えられると、思わず逃げたくなってしまう。でも目を逸らすわけにもいかなくて、わたしはじっと、王様の前で固まっているしかできなかった。
「これは、君がこの国で稼いだ最初のお金だ。誰のものでもない、君だけのものだ。好きなように使うといい」
どきん、と、心臓が大きく鳴った。
わたしのお金。そんなの、考えたこともなかった。
北にいた時はお金なんてたまにしか使わなくて、時々手に入る銅貨は全部父さんが持って行ってしまった。お金に限らなくても、「わたしだけのもの」なんて、この身体のほかには何もなかったと思う。
だのに、ええと、いま目の前で見せてもらってるのは、間違いなくきらきらの金貨で――
「さ、手を出しなさい」
言われるがままに手を伸ばすと、震える右の掌に、王様はそっと金貨を置いてくれた。ひんやりするかと思ったけど、人肌くらいに温かい。
だんだん、わかってきた。
これ、夢じゃないんだ。本当にわたし、金貨一枚……つまりは銀貨百枚分ものお金を、いま持ってるんだ。
わかってきたとたんに、頭の中を色々な物がぐるぐる回りはじめる。
骨付きのお肉。柔らかくて新鮮なお野菜。汁気たっぷりの果物。
ローザリアの街中で見かける、色とりどりのドレスや帽子。お金持ちのひとが顔に付けてる、おしろいや口紅。
この金貨一枚で、どれだけ買えるんだろう。
「市場で美味しい物を好きなだけ買うといい。上等な服や紅でもいいだろう。このお金で、君の欲しいものをどんどん買って楽しむといい。これは君のものなのだからね」
王様の言葉が、わたしの想像と重なる。
でもどこか、違う感じがした。おいしいものも綺麗な服も、確かにあったらうれしいけれど……でも、わたしがいま本当に欲しいものって、それなんだろうか。
ほんのちょっと疑い始めると、寒いものが胸の中でどんどん大きくなってくる。どうすればいいんだろう、と、ラピスさんの方を振り返ってみたけれど、ラピスさんもクロエさんも笑ってわたしを見ているばかりだ。
なんとなく、さっきの感じを思い出してさびしくなってしまう。王様とクロエさんが話していた時、わたしはずっとわけがわからなくて、弾き出されたみたいで――
……そこまで考えて、わたしはやっと気がついた。
わたしが本当に欲しいもの。
そうだ、あれだ。絶対あれしかない。
あれに使わないと、わたし、絶対に後悔する。
わたしは前を向いて、王様の顔を真正面から見つめた。王様の鋭い目つきも、今はもう怖くない。
「どうした、アリサ。何を買うのか考えついたのかな」
「はい、王様。このお金の使い道、決めました」
金貨の乗った掌を、握り締める。震えは、もう消えていた。
「わたし、勉強がしたいです。……このお金で、いっぱいいろんなこと、お勉強したいです」
王様が、目を丸くした。
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