虜囚と麻縄
床に押し付けられながら、わたしは顔だけを動かしてラピスさんの様子を見た。
「意外と聞き分けがよろしいのですね。ラピス・パリセード」
ラピスさんは何も言わずに、ローブの二人の方をにらみつけている。けれどわたしが見ているのに気がつくと、ほんの一瞬だけ、わたしの方を目だけで見た。
とても、やさしい目だった。
驚いて目をしばたたかせると、ラピスさんは目尻を下げて、ほんのすこしだけ口の端を上げてくれた。心配するな、と言ってくれているような、そんな気がした。
えっ、どうして。
どうしてラピスさん、そんなにやさしくしてくれるんだろう。
わたしがへまをやったせいで、ラピスさんまで捕まってしまったのに。捕虜になったらわたしたち、きっと前みたいに売られてしまうのに。
ラピスさん、怖くないんだろうか。
縛られて口を塞がれて、ろくな食べ物も飲み物もないままに、荷馬車に詰め込まれて、知らない土地へ連れていかれることが。
考えていると、胸の奥がどきどきしてくる。とっても嫌などきどきだった。心臓の音が身体中に伝わって、手足が震えだして、胸が締め付けられるように痛くなる。
嫌だ。
わたし、もうあそこにはいきたくない。
助けて。だれか、助けてよ。
「二人に縄をかけなさい」
女の人が言った。わたしの手首に、縄が巻かれた。
毛羽立った縄の感じが、あの日のことを思い出させて、どきどきがまた強くなった。
鞭で打たれても、叩かれても蹴られても、手を動かすこともできなくて、ただ固い縄が擦れるばかりだった、あの日。
やめて。やめて。
泣き出しそうになった時、わたしは、急に気がついた。
身体が熱い。
てっきりそれは、嫌などきどきのせいだと思っていた。でも違う。胸もむかむかしないし、身体が重くなる感じもない。もっとずっと慣れ親しんだ……手足に「力」が巡る、あの感じだ。
あとから考えたら多分、さっきのものすごい光がわたしの中に入ってきてたんだと思う。でもそのときは、余計なことを考える暇なんてなかった。
周りを、見る。
兵士さんは、ラピスさんを捕まえている二人と、わたしの目の前に一人。もう一人はわたしの後ろにいて、さっき手を縛ってきた。
ここから、どうすればいいだろう。
ローザリアで訓練していた時は、力を思い通りに操る訓練をずっとしていたけれど……でもその時って、いつも手を使っていた。手を使わずにどうやって、この人たちに力をぶつければいいだろう。
「さて、身の程を知らん
「仰せのままに、隊長」
「この二人はいかがいたしますか」
わたしの背にいる兵士さんが、ローブのお爺さんに訊ねた。
「上に閉じ込めておけ」
「見張りはいかがいたしますか」
「手足を縛り上げておけば、さしたる脅威にもなるまい。それでも不安であれば、外を歩けんような格好にしてやればよい」
「と、おっしゃいますと?」
お爺さんの目尻が、急に下がった。赤い舌が、口元をぺろりと舐める。
「その方が、『味見』もしやすかろう?」
急に、わたしの周りの空気が変わった。
いや、変わったのは、わたしを見るみんなの目だった。
おぉ、と兵士さんたちがどよめいた。同時に、わたしの背中――魔導鎧の留め金のところを、ごつごつした指が引っ張った。
「さすが隊長、わかってらっしゃる……持つべきは、ものわかりのいい上官ですなあ」
ぷちん、と小さな音が立つ。
同時に、わたしの胸から、魔導鎧の重みがなくなった。からん、と乾いた音を立てて、薄紫の対のお椀は床に落ちた。
兵士さんたちが、一斉にわたしを見た。じっとりと湿った、とっても楽しそうな、おそろしい目だった。
(戦場で、オレたちは獣でしかねえからな)
ラピスさんの言葉が、胸の中に響く。
(弱い者は強い者に敗れ、地に倒され、喰い殺される)
わたし、このまま、喰い殺されるんだろうか。
この人たちに「食べられて」、他の誰かに売られて、そこでも誰かの餌になって。
ぱちり、と小さな音がして、今度は腰当ての重みがなくなった。手を縛られた今のわたしが、どんな格好をしているか、見なくてもわかった。
唾を呑み込む音が、いくつも重なって聞こえた。
いやだ。いやだよ。
わたし、「食べられ」たくないよ。
でもどうすればいいんだろう。
手は動かせない。兵士さんたちは剣を持ってる。少しでも変な動きをすれば、冷たい刃はすぐにもわたしを斬り捨てるだろう。
どうしよう。どうしよう。
せめてこの手が動けば、なにかできるかもしれないのに。
わたしはラピスさんの方を見た。
ラピスさんは、信じられないくらいいつもと変わりなかった。茶色の瞳はぜんぜん揺らいでいなかったし、髪の毛もお馬の尻尾の形を崩してない。
どうして、ラピスさんはこんなに冷静なんだろう――と考えて、ふと気がついた。
ラピスさん、知らないのかもしれない。
捕まって売られるってことが、どんなことなのか。
奴隷になるってことが、どんなことなのか。
とっても苦しいんですよ、ラピスさん。
誰も名前で呼んでくれなくて、お腹がすいてもご飯ももらえないんですよ。裸にされて値段を付けられて、不良品なら傷モノって呼ばれるんですよ。ラピスさんならそんなことないかもしれないけど……いちばん上等な品物以外は、焼印を押されたりするんですよ。
わかってますか、ラピスさん。
このままじゃラピスさんも、そうされちゃうんですよ?
心の中だけで呼びかけて、不意にわたしは気がついた。
このままじゃラピスさんも、奴隷にされちゃうんだ。
わたしはしょうがない。わたしは結局、それだけの値打しかなかったってことなんだから。
でもラピスさんは違う。
わたしとおんなじ目に遭って、いいはずがない。
わたしは目を閉じた。じっとり熱いいくつもの目が、暗闇の向こうに消える。
何度か息を吸って、吐いた。
下で戦っている司令官さんと、王都の兵隊さん。焼けた村でたった一人残された女の人。ソフィーさん、ティエラさん、王都の王様。わたしを抱いて冷たくなっていった、母さん。
いろんな人が通り過ぎていく間、わたしは何度も深く息を吸って、吐いた。吸い込む空気に、とっても濃い「万象の力」を感じる。さっきまで、万象兵器がたくさん力を撃ち出していたから、それが部屋の空気に残っているのかもしれなかった。
わたしは、自分の肌に集中した。
部屋に渦巻いている「万象の力」を、ゆっくりと呼び寄せる。あたたかい炎の力が、きらきら輝く稲光の力が、ゆっくりとわたしの中に流れ込んできた。
いつのまにか、瞼の裏には誰も出てこなくなっていた。代わりにきらきら熱い力が、すっかりむき出しの肌を通して、わたしの身体の奥に溜まっていく。魔導鎧さえ着けていない身体に、上から下から、気持ちいいものが注ぎ込まれていく。
ああ、いい。
とっても、いい。
もっと、もっと、わたしの中に入ってきて。
入りきらなくて、あふれ出すくらいに。
いっぱい、たっぷり、ちょうだい。
水に落とした綿みたいに、どんどん力が流れ込んでくる。
身体の奥の熱いのが、みるみる膨れ上がっていく。
膨れ上がったものが弾ける直前、わたしは目を見開いた。
相も変わらず注がれる、じっとりした目。獲物を前にした獣の口元。
わたしは笑って――
――力を、爆発させた。
◆ ◇ ◆
目の前に、氷柱が三つできている。白く濁った氷の中は見えない、けれど、大きさはちょうど人間の大人一人くらい。
石の壁も天井も、真っ白な霜に覆われている。その中で、青い鎧を身に着けた女の人――ラピスさんが、ゆっくりと起き上がった。
「……おい」
どこか夢見心地の声で、ラピスさんが呟く。
「いきなりどうした。こいつぁ――」
「……わたし。わたし……ラピスさん……」
まともな言葉が、出てこない。
わたし、ラピスさん、その二言だけをぼーっと繰り返していると、不意にしわがれた叫び声がした。
「なんとかしろダフネ! 手足さえ封じれば、万象の闘士と言えど抵抗できぬはずではなかったのか!!」
兵士さんたちの後ろで、お爺さんには直に氷が当たらなかったみたいだった。それでも灰のローブには白い霜が積もっていて、お爺さんは氷の粉を懸命に払いながら、隣のダフネさんを怒鳴りつけていた。
「私の知る限り、それで間違いはないのですが。とはいえ、我らの知らぬことなどこの世にはいくらでも起きましょう。すべてをお知りになるのは、ただ至高神のみ」
「神などどうでもよい! 今すぐ鼠どもを捕らえ直せ、さもなくば――」
お爺さんは、ローブの中から
「……っ!?」
お爺さんが、目を見開く。
「さもなくば……どうなさるおつもりで?」
ダフネさんが笑う。
おそろしいくらい冷たい笑いだった。ひょっとすると、わたしの氷よりも冷たいかもしれない。わたしの手が、ちょっと震えてしまったくらいだから。
「ダフネ……貴様、何をした!」
「貴方には、特に何もしておりませんわ。やったのはただ――」
お爺さんの手から、短剣が抜ける。
宙を舞った短剣は、お爺さんの首筋に引き寄せられ、
「――鋼をすこし、操らせてもらっただけです」
「ダ、ダフネ、貴様――」
ダフネさんは突然、声を上げて笑いはじめた。
澄んだ声音で、けどどうしようもなく冷たくて鋭い笑いだった。
「そのような名前で呼ばないでくださいな。私はクロエ・ハートレー。
思わずわたしは、ぽかんと口を開けてしまった。
横で、ラピスさんが高らかに笑い始めた。
ダフネさん――いやクロエさんとは真逆の、心の底から愉快そうな笑いだった。
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