美獣と覚悟

 中央政庁から家へ帰ると、ラピスさんはすぐに戦支度を始めた。

 ラピスさんの家は、王立治療院やティエラさんの家とは大通りを挟んで反対側にある。ローザリアの他の家と同じ、赤味がかった木と白漆喰とでできていて、無理すれば一家四人でも住めそうなくらいの広さがある。それをラピスさんは、わたしが来るまでは一人で使っていたみたいだ。

 だったらさぞかしがらんとしてるんだろうな、と、初めてこの家を見た時は思ってた。けど入ってみたら全然そんなことはなくて、空いたお部屋には何に使うのかわからない物がいっぱい詰め込んであった。変な模様が書いてある布、大きな鉄の箱や革袋、ベッドでは使ってない毛布、ほこりをかぶったテーブルや椅子、ほんのちょっと欠けたお皿やボウル……わたしがお部屋を最初に見た時、ラピスさんは顔を真っ赤にしながら、厳しい声で言った。


「いいか、捨てろとか言うんじゃねえぞ。これはみんな、必要があってここに置いてあるんだからな」


 そのときはよくわからなかったけど、今になってわかった。

 そのうちのいくつかは、戦に使うものだったんだ。


「よく見ておけ。干肉は袋の右側に入れておく。包帯と軟膏は左側だ。毛布が入ると見えなくなるからな、覚えておけよ」


 言いながらてきぱきと、ラピスさんは大きな革の背負い袋に荷物を詰めていく。でも小袋に入った干肉は、普段食べる一日分くらいしかない。ラピスさんによると、今回攻める敵拠点までは片道二日ほどあるというんだけど。


「お肉、少なくないですか……?」

「こいつは非常食だよ」


 言いつつラピスさんは、丸めた毛布を背負い袋の真ん中に押し込んだ。


「普段の糧食は衛兵塔で補給を受けられる。各自が持っていくのは、拠点へ戻れねえ場合に食いつなぐための分だ。くれぐれも、小腹が空いたからって軽々しくつまむんじゃねえぞ。それは生命線だ」

「そうなんですね……」


 正直、ちょっと自信がない。お腹が空いたときに、自分が背負ってる袋の中にお肉があるとわかってたら……我慢できるか、ちょっとわからない。


「荷物の準備はできたな。それじゃ、着替えるぜ」


 言うが早いか、ラピスさんは着ていたダブレットを脱いだ。

 手早く畳んで脇に置くと、次いでズボンを、胸当てブラジャー下穿きショーツを、ほんのわずかのためらいもなく、脱いでいく。あっという間に、ラピスさんは裸になってしまった。


(やっぱり……すごく、綺麗)


 一緒に暮らしているから、何度かラピスさんの裸は見たことがある。けど、そのたびに見とれてしまう。

 手も足も胴もしなやかで、北の海で獲れるお魚のお腹みたいにすべすべだ。けどお魚みたいな冷たい銀色じゃなくて、織りたての麻布みたいなやさしい黄色をしていて……触ったらきっと気持ちいいんだろうなと思う。

 でもそれでいて、気軽に触っちゃいけないような、ぴんと張りつめた感じもしていて……ほんとうの「万象の闘士」って、こういう人のことなんだろうな、と思う。


「おい、何ぼーっとしてんだアリサ」

「え! あ……はい」


 あわてて、背筋を伸ばす。

 胸当てと股当てを身に付けながら、ラピスさんは目で部屋の端を示した。ラピスさんが持って帰ってきてくれた、上等そうな白い布袋――わたしの鎧が入った袋が、壁際に静かに置かれている。


「着替え終わったら出るぞ。一人じゃ無理なら手伝うが」


 わたしは黙って布袋を取った。

 がちゃり、と音がする。大きさの割に軽い。

 手を突っ込んで、触ったものを掴み出してみたら、中に革が張られた薄紫のお椀が二つ繋がって出てきた。

 掌に乗せて、これがわたしの胸の大きさなんだなあと思うと……なんだか、急に恥ずかしくなった。


(傷モノか)


 どこからか、あざける声が聞こえた気がした。


「おいアリサ。脱がなきゃ魔導鎧は着られねえぞ」


 うつむくわたしに向けて、ラピスさんの声が飛んでくる。


「ぬ、脱ぎ……ます……」


 上着を脱いで、胸当てブラジャーも取って、腰から上をすっかり裸にして、魔導鎧を胸に当てる。背中の留め金をはめようとすると、手が震えてうまく引っかからない。


「うまくいかねえなら、胸の前で留めてから後ろへ回すといいぞ」


 無言で頷いて、言う通りにする。けれどそれでも震える指の先で、留め金はうまく穴にはまらず滑るばかりだった。

 頭の中に、何人もの男の人の目がちらつく。

 人買いのひとたち。わたしに焼印を押した奴隷商人のひとたち。……ほんの少し前、顔を真っ赤にしながらわたしを見ていた伝令の兵士さん。

 ラピスさんは、あんなふうに見られたことないんだろうか。それとも……見られても、平気なんだろうか。


「ラピス、さん」

「なんだ」


 手を止めて、わたしはラピスさんを見上げた。ラピスさんは浮かない顔でわたしを見ている。心配されているのか呆れられているのか、ちょっとわからない。


「これから一緒に行く兵隊さんたちって……みんな、男の人なんですよね」

「そうだな。衛兵塔には補給や治療担当の女子兵もいるが、実戦部隊は男ばかりだ。オレたち以外に女はいねえな」

「だ、だったら」


 わたしは、ラピスさんの目をじっと見た。


「ラピスさん、男の人に……変な目で、見られたりしないんですか……?」

「変な目? ……ああ」


 ラピスさんは目を細めた。笑っているのか憐れんでいるのか、見分けがつかない顔だった。


「まあいつものことだな。オレが外套を脱いで臨戦態勢に入ったら、後ろの方からよくわかんねえ歓声が上がったりな」

「ラピスさん、それで……へ、平気、なんですか……!?」


 ふう、と、ラピスさんは一つ息を吐いた。


「オレたちの行く先は戦場だ。戦場で、オレたちは獣でしかねえからな」

「それって……男の人はケダモノって、そういう――」


 ラピスさんは静かに首を振った。


「言ったじゃねえか、『オレたち』ってな。戦場は命のやりとりの場。そこでオレたちは皆、獣だ……弱い者は強い者に敗れ、地に倒され、喰い殺される。同じ群れ同士なら、弱い者は強い者に守られ、強い者の威光の前にひれ伏す。それは誰しも変わらねえ」


 ラピスさんの眼光が、鋭くなった。見つめられて、背筋に寒気が走る。


「オレたちが戦に駆り出されてんのは、オレたちが強いからだ。他の理由はねえ。だったら存分に強さを見せつけて、圧倒してやりゃあいいんだよ……勝つのは誰か、負けるのは誰か、守ってんのは誰か、守られてんのは誰か、思い知らせるんだ」


 ラピスさんの手が、わたしの手を包んだ。ゆるく握られると、わたしの手が震えているのがよくわかる。


「おまえは、強い」


 震えを押しつぶすように、ラピスさんの手が強く握られた。


「思い出せ、オレの『器』を一瞬で溢れさせた日のことを。吹き上がる火を消し飛ばした夜のことを。これまでの修練のことを。……安心しな、お前は強い」

「ラピスさん。もし……もしも」


 出した声が震えてしまう。ラピスさんの言うことが本当なら、わたしは……わたしは。


「そこに、戦の場に、ひとりだけ弱い人がいたら……どうなるんでしょうか」

「喰い殺される。それだけだ」


 息を呑むと、ラピスさんは真正面からわたしをにらみつけた。これまで見たことがないような、おそろしく厳しい目だった。


「だから強くいろ、アリサ。守れる限りは守ってやる。だが、他の連中の目から守ってやることまではできねえ……強者として振る舞え。堂々としていろ。お前の力を、居並ぶ連中ことごとくに見せつけるんだ」


 震えたままのわたしの手を、ラピスさんはそっと離した。


「そのことだけ考えていな。……そうすりゃあ、自然と雑念は気にならなくなる」


 雑念。

 今のこの恥ずかしさって、雑念……なんだろうか。

 わかるのは、わたしたちはとても恐ろしいところへ行くのだ、ということだけ。

 ラピスさんの手が、鎧の金具を前側で留めてくれる。あっさり留まった継ぎ目部分が後ろに回り、お椀二つが前に来る。

 ラピスさんの視線が、ふっと緩んだ。


「一緒に無事で帰ろうぜ。アリサ」


 ラピスさんの掌が、わたしの胸を寄せてお椀に入れる。

 吸いつくような革の感触に包まれながら、わたしの震えはまだ止まらなかった。

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