猛火と歓声
暗い街路を駆けると、火元はすぐに見つかった。
万象の種火のすぐ近くにある建物が、二軒燃えていた。一軒にはどんどん火が回っている。もう一件は、今は屋根の縁が燃えているだけだけれど、放っておけばどんどん燃え広がりそうだ。
大勢の人が集まって、万象の水源から水を汲みながら、近くの家に撒いている。周りを湿らせることはできても、燃えているところにはみんな手が出せないみたいだった。
「アリサ!」
聞き覚えがある声に振り向くと、ティエラさんとソフィーさんがいた。ティエラさんもソフィーさんも寝間着姿で、ソフィーさんは綺麗な模様のついた布を肩に巻いている。
「ちょうどいいところに来ましたわね。アリサ、ラピスは今どこですの?」
「さっき家の方に人を行かせたんだが、留守だったようでね。困っていたんだ」
言っていいのか、わたしは少し迷った。けど、いつまでも隠してはいられそうにない。
「……王立治療院です」
「なんでまたそんなところに? 彼女のことだから、しまったまま忘れてたソーセージでも食べてしまったのかな」
「冗談を言っている場合ではありませんわよ、ティエラ」
「冗談のつもりはなかったのだけれど……ともあれアリサ、急いでラピスを呼んできてくれ。一刻も早く、彼女の『水』が必要だ」
あわてて、わたしは首を振った。
「だめです。ラピスさんはいま、安静にしてなきゃいけないんです」
「えらく大変なことになってますわね……いったい何があったんですの?」
「ソフィー、それは後で訊けばいいだろう。アリサ、いまラピスはどんな状態なんだ?」
わたしは、答えに詰まってしまった。
身体は治っている、とマグノリアさんは言っていた。だったら今はもう、力を使っても大丈夫なのかもしれない。
でも、もし大丈夫じゃなかったら?
わたしのせいで倒れたラピスさんが、治りきらないうちに無理をして、今度こそ取り返しのつかないことになってしまったら?
「まだ……だめです。今、ラピスさんは寝てます。ゆっくり寝かせてあげないと――」
「起きられない状態なんですの?」
「い、いえ。そうじゃ、ないんですけど」
「なら問題ありませんわね。誰か、今すぐ治療院へ――」
わたしは、ソフィーさんの腕にしがみついた。
「だめです、起こさないで、あげてください」
「今は、そんなことを言っている場合ではありませんのよ!」
ソフィーさんの声が、厳しくなった。
「このまま放っておけば、市中に燃え広がるかもしれませんわ……風向きが変われば治療院も危ないですわよ」
「で、でも――」
「考えてみてほしい、アリサ」
ティエラさんの大きな手が、わたしの肩に乗った。
「自分が寝ている間に街が燃えてしまったとなれば、ラピスはきっと激しく悔いる。君はラピスの心に、消えない後悔を刻み付けたいのかい?」
「……でも」
「助けられるものを助けられなかった、その後悔はずっと残るんだよ」
「…………」
わたしは顔を上げて、目の前の炎を見た。
ほっぺたに感じる熱さが、さっきよりも強くなってる。一軒目はそろそろ崩れ落ちそうだ。二軒目の柱にも、今にも火が回ろうとしていて、火の勢いはまったく衰えそうにない。
背の方から、ソフィーさんの声がする。
「王立治療院から、ラピスを連れてきてくださいな。一刻も早く」
「わかりました!」
誰かが駆けていく足音が、聞こえる。わたしは燃える家の前で、ただ立っているしかできなかった。
わたし、いつも、なんにもできない。
へまをして、ラピスさんに大怪我をさせて。
そのくせ、ラピスさんをゆっくり休ませてあげることもできなくて。
ほんとうにわたし、なんの役にも立ってない。いや、へまばっかりして、いない方がいいよね。
(どうしてわたし……いつもこうなんだろ……)
火が強くなってくる。そのたびに、ほっぺたが熱くなってくる。
空気がすこし動くたびに、ほっぺたの中と外とが熱を持って――
(……あれ?)
わたしは、ほんのすこし違和感を持った。
これ、火の熱さじゃない。
いつも家でかまどを見ていた時の感じと、ちょっと違う。
(これ、火の「万象の力」……?)
昼間に丘の上で、火の光や風の中に感じていたのと、今のほっぺたの熱いのは、なんだかとても……よく似ている。
わたし、火の持つ「力」を、感じられるようになった……のかな。
(でも、だとすると……)
わたしの力は「氷」。ラピスさんがそう言ってた。
そして、わたしの力は、力だけなら、ラピスさんより強い……みたいだ。少なくとも、ラピスさんが受け止めきれないくらいには。
だったら。
(いやいや、そんなの無理だよ……それにひょっとしたら、周りの人も巻き込んじゃうかも)
火の周りでは、大勢の人が一生懸命水を撒いている。さっきみたいにして、他の人たちを凍らせちゃったら――
(でも……でも。もしうまくいったら、水を撒く必要だってなくなるし……ラピスさんも何もしなくていい)
わたしの心の中で、別の声がする。
(そうして、もっとひどいことになったらどうするの。わたしにできることなんて何もないよ。これまでだってなかったじゃない)
一軒目が音を立てて崩れた。周りの人たちから、悲鳴が上がる。
二軒目に、炎が回り始めた。
さっき聞いたばかりのティエラさんの声が、響いてきた。
(助けられるものを助けられなかった、その後悔はずっと残るんだよ)
そう、なんですか。
わたしが助けられるものなんて、これまで何もなかったけど……そうなんですか、ティエラさん。
訊こうとしても、ティエラさんはもう側にはいない。遠くで、やってきた衛兵さんたちと何かを話している。
わたしは、唇を噛み締めた。
(わたし、これまでずっと……後悔することばっかりだった)
母さんに何も返せなかったこと。父さんのお酒をどうにもできなかったこと。傷モノって呼ばれたこと。……ラピスさんに言われたこと、何一つまともにできなかったこと。
どれもこれも、心の中で痛くって、思い出すと泣きたくなる。
(だから、もう……増やしたくないよ)
拳を握って、わたしは叫んだ。
「みなさん!」
周りの人たちが、一斉にわたしを振り向いた。何十人もの目がわたしの方を向いて……足が、ちょっとすくむ。
でも、それでも、わたしは声を張り上げた。
「ここから、少しの間逃げてください! 通りの向こうに隠れててください!! ……えっと、それと、あの」
声が、尻すぼみに小さくなる。でも、これは、言っておかないと。
「できれば、その……男の人は、しばらく、こっち見ないでいてください……」
周りの人たちがざわめく。
「すみません、危ないので逃げててください。隠れててください!」
もう一度叫ぶと、潮が引くように人垣が遠ざかっていく。やがて火の周りには誰もいなくなった。通りの反対側に隠れた人たちを見ると、男の人はちゃんと後ろを向いてくれていた。
(……ありがとう)
心の中だけで言って。
わたしは、勢いよく上着とスカートを脱ぎ捨てた。
胸当てと下穿きだけになって、わたしは燃える家へ一歩を踏み出した。
(うっ……これ、は)
むき出しになった肌が、かっと熱くなる。これは、火そのものの熱さじゃない。
(万象の力だ……それも、万象術で作ったやつだ)
ラピスさんの水のような、純粋で吸い取りやすい力だ。
わたしは目を閉じ、意識を集中した。すると肌を通って、あふれそうなくらいの熱い力が、わたしの中に流れ込んできた。
(くぅ……あ、ぁ)
ものすごい、力の洪水だった。
上から下から、熱いものがわたしの中へ入ってきて……お腹の奥がびくびく震えて……
あっというまに、あふれてしまいそうに、なる。
(……だめ、っ)
すんでのところで、わたしは踏みとどまった。このままあふれさせてしまえば、また昼間みたいに暴発してしまうだけ。
わたしは、両手を前に差し出した。掌を火元へ向けて、意識を集中する。
(身体にあふれる火の力よ……わたしの「氷」になって。そして、飛んでいって!)
お腹の奥で疼くなにかを、吐く息に乗せて胸へ持ちあげて。
胸に渦巻く熱を、そのまま、掌の先へ――
その瞬間、なにかが弾けた。
(きゃ…………!!)
ものすごい音がした。
すさまじい力が弾けて、わたしは、吹き飛ばされて尻もちをついた。
下穿きだけのお尻が、石畳に強く打ちつけられて……とっても、痛い。
お尻をさすりながら、わたしは顔を上げた。
「……え」
わたしは、何も言えなかった。それくらい、びっくりしてしまった。
目の前の家が、氷漬けになっていた。黒く焦げた柱には霜がついて、屋根も壁も白くなっていて、赤い炎はもうどこにもなかった。
家だけじゃなかった。わたしの目の前の石畳にも、白い細かな氷の粒が積もっていて……街の人たちが水をかけるのに使っていた桶は、カチカチに凍りついている。
「これ……ぜんぶ、わたしがやったの……?」
呆然としていると、不意に、後ろの方からものすごい歓声が上がった。
口笛、拍手、興奮した話し声。全部が混ざった中から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あなた……いつの間に、『力』を身に着けてましたの」
ソフィーさんの声だった。
それと同時に、わたしの肩に何かが掛かった。見ると、ソフィーさんが肩に巻いていた綺麗な布だった。
「訓練は不調だと、ラピスから聞いていましたのに。これは思った以上の――」
「まあ、そんなことは今はいい」
ティエラさんの声がした。
「今は、新たな『万象の闘士』の誕生を祝おうじゃないか。……さあ」
ティエラさんに促され、わたしは後ろを向いた。
すると建物の影から、たくさんの人がわたしたちへ向けて手を振ってくれていた。口笛を吹いている人も何人かいた。
「皆。この娘は、我らの新たなる『万象の闘士』だ」
ティエラさんの声に応えて、ものすごい歓声が上がった。
「名をアリサという。皆、新たな闘士の誕生を祝福してほしい。『氷』の闘士、アリサの前途に幸あらんことを!」
ティエラさんは、天に向かって拳を突き上げた。
それと同時に街の人たちが、揃ってわたしの声を呼び始めた。
「アリサ!」
「アリサ! アリサ!!」
はじめはばらばらだった声が、次第に合わさって、天をも揺るがしそうな大歓声になる。
わたしは思わず、自分の口を手で押さえた。そうしないと、変な声が出てしまいそうだった。
みんなが、わたしの名前を呼んでくれる。
それも、罵りじゃなくて。
悪口でもなくて。
わたしのやったことで、みんなが、喜んでくれている。
「あ……あ」
目の前がぼやける。
目頭が熱くなる。
熱いものが、ほっぺたを流れて落ちる。
なんだろう、胸の中がとっても熱い。
火の熱さじゃなくて、万象の力の熱さでもなくて。でもとってもあたたかくて、泣きそうなくらい、つんと鼻にきて。
「アリサ……すげえな」
すぐ近くから、ラピスさんの声がした。
「治療院から呼び出されたときは、どうなってるかと思ったが……立派だったぞ、アリサ」
「ラピスさん。……わたし……わたし」
何を言っていいのか、言葉が出てこない。
頭の中がすっかりぐちゃぐちゃで、意味のある言葉なんて、出てきそうにない。
「うれしいのか、アリサ」
誰かの手が……感触はたぶんラピスさんの手が、わたしのほっぺたを挟んだ。
「泣きたい時は、好きなだけ泣いてかまわねえぜ。咎めるやつはいねえからよ」
その言葉で、なにかが壊れた。
わたしは、わんわん声を上げて泣いた。
出る限りの声をあげて、泣いた。
わたしの名前を呼ぶ歓声は、ずっと続いていた。声が胸の中に入って、心臓を燃やしていくみたいだ。
心臓が燃えるたびに、また新しい涙の素が生まれるみたいで。涙の止め方が、わたしには全然わからなかった。
それからずっと、疲れて声が出なくなるまで。
わたしはラピスさんの手の中で、ひたすらに、ただひたすらに、泣きつづけた。
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