追憶と夜食
どうにか籠二杯分のミントを摘み終えて、わたしとイリーナは治療院へ戻った。マグノリアさんはちょうど最初の施術が終わったところで、いつものように優しく微笑みながら籠を受け取ってくれた。
わたしはそれからしばらく、廊下の椅子に座って治療の終わりを待った。イリーナは他の仕事に行ってしまって、わたしは一人だった。色々な人が廊下を行き交うのをぼんやり眺めながら、わたしはずっと物思いにふけっていた。
(わたし……どうしたいんだろう)
かわいがってもらって、でもわたしは何も返せなくて。
わたしはじっと自分の手を見た。目を閉じると、ラピスさんの身体の冷たさが……母さんの身体の冷たさが、蘇ってくる。
母さんはやさしかった。すごくやさしかった。わたしをとっても愛してくれて……わたしを守って、凍えて死んでしまった。母さんに何も返せないまま、母さんは冷たくなってしまった。
母さんが死んで、父さんはわたしを嫌うようになった。おまえのためにあいつは死んだんだと、お酒を飲んでは当たり散らされた。お酒の量が多くなって、ツケもどんどん払えなくなって、母さんの遺した服や飾り物も売って……最後にわたしを、港の人買いに銀二十枚で売った。
父さん、今頃どうしてるだろうか。わたしがいなくなって、せいせいしてるだろうか。ツケはちゃんと払えてるだろうか……なんて考えかけて、わたしは頭をぶんぶん振った。あんな人のこと、もう考えたくない。
と、その時、治療室の扉が開いた。
「終わりましたよ。アリサさん、どうぞ」
マグノリアさんに促されて、わたしは治療室に入った。白いシーツのベッドに寝かされたラピスさんの手は、ちゃんと人の肌の色をしていた。傍らの籠には、さっきわたしたちが摘んできたミントの葉が、すっかりかさかさになって積もっている。
「ラピスさん!」
「ん……アリサか」
駆け寄って触ると、手も肩も胴もちゃんと温かい。思わず涙がこぼれた。
「泣くなよアリサ。……すまん、心配かけたな」
「もう、大丈夫なんですよね? 傷が残ったりとか、してないですよね?」
「その件についてですが」
マグノリアさんが、わたしとラピスさんの横に立った。
「ラピスさんは、肉体的には完治しています。ただ、強烈な『力』を受けたことで、体力の消耗がかなり激しいようです。念のため、今夜一晩はここで安静にしていただくのがよいかと思います」
「だ、そうだ。オレとしてもさっきからえらく眠いんでな、静かなところで休めるならそうしたいんだが……アリサはどうする。ひとりで家に戻ってもいいが」
「ただ私たちとしては、もし付き添いが可能でしたらお願いできると助かります。私たちだけでは、ラピスさんを夜中まで見守ることはできませんから」
わたしは、首を縦に振った。
「付き添い、やります。ラピスさんに変わったことがないか、見ていればいいんですね?」
「できる範囲で構いません。眠くなったら仮眠をとっていただいて問題ありませんよ」
「あと、もし夜中に腹が減ったら」
ラピスさんは、ベッドの脇に置いてあった革袋を掲げてみせた。マグノリアさんがそれを取って、わたしに渡してくれた。
「うまくおまえが『力』に開眼できたら、祝いにあそこで開けるつもりだった。オレは腹が減ってないから、アリサが食べろ。……開眼できたことに変わりはないからな」
袋の中身は、干肉と拳くらいのチーズだった。
◆ ◇ ◆
窓の外に、たくさんの星がまたたいている。建物の影の上に、金の砂を撒いたようにきらめく星を見ながら、わたしはチーズを二つに割った。皮は硬そうに見えたけど、真っ二つにしてみると、中は意外に柔らかそうだった。
日が落ちて、もうだいぶ時間が経っている。夜明けまであとどれだけあるかはわからないけれど、お腹はどうしようもなく空いてしまった。
ラピスさんはずっと、目の前ですうすうと穏やかな寝息を立てている。その横顔を眺めながら、わたしはチーズにかぶりついた。
(これは、たぶん……フォークを使わなくてもいいよね……)
もし、これも手づかみダメだったらごめんなさい……と、目の前のラピスさんに謝りながら噛んでみる。
チーズはとても匂いがきつくて、一口だけで、身体の中がチーズの匂いでいっぱいになる気がした。そしてそのぶん味も濃くて、塩気も強くて、三口くらい食べると飲むものがほしくなった。
たしか治療院には、近くにある「万象の水源」から清潔な水が引いてあったはず。ちょっとだけ借りさせてもらおうと、わたしは備え付けのランプを手に、ラピスさんが眠る寝室を出た。
廊下を伝って裏口から外に出ると、水場はすぐに見つかった。手ですくって水を飲むと、チーズの匂いで一杯だった口の中がさっぱりする。
ふぅ、と一息ついたとき、わたしは大変なことに気がついてしまった。
(あれ……何だろう?)
水場から見える建物の間に、赤い光がちろちろと見えている。はじめは、近くにあるはずの「万象の種火」かと思った。けど種火は石の塔の中にしまわれていて、こんな風に外から見えたりはしない。
首を傾げているうちに、赤い光はどんどん大きくなっていく。
そしてとうとう、光の根元に、揺れる炎が立ち上りはじめた。
「ど……どうしよう」
思わず、声が出てしまった。
火事だ。
街に火がついて、建物が燃えているんだ。
どうしよう。
誰か、もう気付いてくれてるだろうか。
いや、この時間だし、みんな寝てるかもしれない。
みんな寝てるとしたらどうしよう。誰かを呼ばないと。
でも誰を?
色々な考えがぐるぐる回る。わたしは、どうしていいかわからなかった。
(わたしは、ラピスさんの弟子だから。ラピスさんに訊けば――)
いや、だめだ。ラピスさんは今、安静にしてなきゃいけない。起こしちゃだめだ。
でも、だとしたら、どうすればいいのか。
わたしは炎を見た。
そして、治療院の中を見た。動くものの気配は何もない。
また、炎を見た。さっきより大きく見えるのは、気のせいではないと思う。
わたしは赤い光へ向けて、一目散に駆け出していった。
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