水滴と氷嵐

 ラピスさんからの返事は、かえってこない。

 わたしは自分の胸と、足の間に手を遣りながら、背を丸めて縮こまった。確かに空はよく晴れていて、降り注ぐ暖かい春の日差しは眠くなりそうに気持ちいいけれど。見渡すかぎりに生えている若い草の匂いは、胸の奥まで深く吸い込みたくなるけれど。でもそれは、こんな格好しなくたって同じだと思う。


「まあそうだな。オレたちがただの人間なら、そうかもしれねえが――」


 不意に、ラピスさんがわたしの肩をつついた。振り向くと、ラピスさんは相変わらず、掌の上に水の玉を漂わせている。


「――オレたちは、こういうこともできる」


 みるみるうちに、水の玉が膨れ上がった。

 玉だったものが渦を巻いて、竜巻のようになって、渦がどんどん大きくなって、そして――


「気持ちいいぜ。心の底からな!」


 ――ラピスさんの言葉と共に、弾けた。

 霧雨のような細かな水滴が、辺り一面に降り注ぐ。わたしの肌も、ひんやりと濡れた。


(……あ)


 その時、わたしは気がついた。

 濡れた肌から、じんわりと「なにか」が染み通ってくる。冷たいようで熱いようで、光っているようで透明なようで……そして、とても。


「気持ち……いい……」


 冷たくて気持ちいい、というのとはちょっと違っていた。なにかよくわからない力が、肌を通してわたしの中に入ってくる、そんな感じだった。

 はは、と、ラピスさんが声をあげて笑うのが聞こえた。


「わかったか? ようやく」

「ラピスさん、これって――」

「そう。これこそが『万象の力』だ」


 あ、と、思わず声が出た。


「天と地の間に満ちる、あらゆるものの力。それこそが万象の力だ。この日の光も、吹き渡る風も、草木も、土や石も……すべてがこの肌を通して、オレたちの力になるんだ」

「ラピスさん……もしかして、それを教えるためにわざわざ――」


 ラピスさんは、今度は鼻で笑った。


「やっと気がついたか。身体づくりも大事だが、『万象の闘士』として戦うなら、なによりもまず『万象の力』を使いこなす必要がある……そろそろ、その時期だと思ったんでな。万象の力は精妙に過ぎて、布越しでは取り込めねえ。だからこそこの格好だ」

「で、でも、ラピスさん」


 わたしは、あわてて言った。


「ラピスさんのお水からは、確かになにか不思議な……力を感じますけど。お日様や風や草木は……ただの、お日様や風や草木で」

「何も感じない、ってか」


 小さく、わたしは頷いた。ラピスさんが、見てくれてるといいのだけれど。


「確かに、万象術で作った純粋な水や炎と、自然の雑多な力はだいぶ違うからな。ただアリサ、おまえは力を使う才能が間違いなくある。取り込むことさえできれば、使う方はすぐにでもできると思うぜ」

「そう……なんでしょうか……」

「最初に会ったとき、オレの力をすぐに使いこなしたろ」


 ソフィーさんの火を受けてしまった時のことを、言ってるんだろうか。


「でもあの時は……ラピスさんが導いてくれたから、できただけです」

「導かれてまったくその通りにできるのは、才能だよ。オレも、あそこまでうまくいくとは思ってなかったしな……ああ、そうだ」


 不意に、ラピスさんが横で身体を起こした。


「なんなら思い出してみるか? 巡る力の感覚さえ覚えれば、天地に満ちる力も感じ取りやすくなるかもしれねえ」


 日の光が、ふっと翳った。

 ラピスさんの顔が、わたしを上から覗き込んでいる。

 わたしの濡れたままのお腹を、固い掌がさわさわと撫で回した。掌や指が触ったところから、じんわりと、温かいものが流れ込んできた。


(……あ……)


 春の日差しみたいに、気持ちいい、なにか。


「身体のあちこちに巡らせてみろ。……身体の外にも、同じものがあることを感じるんだ」


 言われるがままに、お腹にわだかまる気持ちいいものを、ゆっくり広げていく。

 まず胸のほうに、そこから肩へ、手の先へ。そうする間にも、ラピスさんの掌からは、気持ちいい何かがお腹の中へと注がれてくる。

 気持ちいいなにかを受け止めるたびに、身体の奥がぴくぴく震えだすような……そんな感じが、する。


「……っ……く、ぅ」


 漏れそうになった声を噛み殺すと、ラピスさんの囁き声が降ってきた。


「誰も聞いてねえよ。……声、出しな」


 言いながら、ラピスさんはまた、気持ちのいいのを送ってくる。


「あっ! あぁ……っ……」

「いいぞ。声を出した方がたかぶる。……昂るほどに、敏感になる」


 確かに、ラピスさんの言う通りだった。

 少しずつ、わたしは感じ始めていた。身体の外にもほんのりと、けれど確かに、熱くて気持ちいいなにかがある。それはお日様の光の中だったり、そよそよ吹いている風からだったりするけれど、ラピスさんが注いでくれる力ととてもよく似ていた。

 そこで不意に、ラピスさんはわたしのお腹から手を離した。


「……っ、あ」

「アリサ。ここから先はおまえ次第……さあ、自分でやってみろ」

「え、っ」

「その器で、天地を巡る力を受け止めろ。己を満たし、高みに達するんだ」


 お腹の奥の方が、ぴくぴくと震えはじめた、気がする。

 欲しい、あの気持ちいいのが欲しい――急に突き放された身体が、囁いてくる。


「オレの力を、身体に巡らせたように……外にある力が、流れ込んでくるところを想像しろ」


 言われるがままに想像する。

 お日様の光が、吹き渡る風が、土の匂いが、わたしの身体に入ってくるところを。

 すると、入ってきた。

 はじめは少しずつ。だんだん、大きな流れになって。


「っは……ぁ、あ」


 声が、出る。

 気持ち、いい。

 いろんな気持ちいいのが、いろんなところから、わたしの中に入ってくる。

 ラピスさんの力ほど、強くはないけど……温かかったり柔らかかったり、さわさわしたりむずむずしたり、いろんな力がわたしの奥へ流れ込んで……あふれそうに、なる。


「感じてるか、力を」


 ラピスさんが笑う。

 こくこくと頷くと、ラピスさんも頷き返してくれた。


「いいぞ、感じまくってるな……初めてでここまで感じるなんてな、やっぱりおまえ、才能あるぜ」

「ラピ、ス……さん」


 息を荒げながら、わたしは言った。

 もう、中が、いっぱいだった。わたしの奥にある何かがひどく疼いて、あとすこしで、はちきれそうになってる。


「あふれ……ちゃい、そう、です」


 気持ちよくって、目頭が熱くなって……ラピスさんの姿も、滲む。


「そうか。なら……出せ」

「え?」

「溜まったものを、おまえの『力』に変えて……外に放つんだ。心配ない、オレが受け止めてやる」


 言われる間にも、気持ちいいものはどんどん流れ込んでくる。

 ラピスさんの掌が、わたしの掌に重なった。まず左手に、次に右手に。重なる人肌の感触が、吸いつくようにあたたかい。


「手に集中してみろ。ここに、流し込め……思いきり、ぶちまけろ」


 言われるがままに、それを、流そうとしたとき。

 わたしの中で、なにかが――弾けた。


「あ、っ……あああ、あぁあ…………!」


 気持ちいいものが、頭の上から足の先まで走り抜けて――ぼうっと、気が遠くなる。


「……これ、は……っく…………!!」


 最後に聞こえたのは、ラピスさんの苦しそうなうめき声だった。




 ◆ ◇ ◆




 気がついたとき、わたしは、どこか他のところに来てしまったと思った。

 肌に感じる空気が、ひんやりしていた。周りの草には霜がついていて、葉っぱが黒くなったり、茶色に枯れている草もあった。

 胸当てと下穿きのほかに、わたしは何も着ていなかった。身体の下に何か敷いてあるのに気付いて、確かめようとしたとき――隣に人が倒れているのに気がついた。


「ラピスさん!」


 叫んで、わたしはラピスさんの身体を揺すった。

 触った身体がひどく冷たくて、いやな予感がする。


「っ……アリサ、か」

「しっかりしてください、ラピスさん!!」


 ラピスさんは薄く笑った。


「すげえな、おまえの力……オレなら受け切れると思っていたが、ちょっとばかりあふれた。確かに『器』は大きいらしい」


 ラピスさんの両手は、凍っていた。

 冷たくなって、指先はすっかり紫になって……白い霜に覆われている。


「おまえの力、『氷』か……予想はしてたがな。お前はさぞかし大物の――」

「そんなことどうでもいいです!」


 覚えてる、とってもよく覚えてる、この感触。

 氷竜に襲われて、氷漬けになってしまった村で、母さんはこんな風に冷たくなっていった。


「ラピスさん! ラピスさん……!!」


 泣きながら、わたしはラピスさんをさすった。でもわたしの手が冷たくなるばかりで、ラピスさんの手は、身体は、春の日差しの下なのに、ちっとも温かくなってくれなかった。

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