煮汁と汁椀

 家に帰ってすぐ、ティエラさんは種火を暖炉に入れた。明るい炎がぱっと燃え上がって、部屋の様子が浮かび上がった。

 火の橙色で照らされてるせいかもしれないけれど、とても温かい感じのお家だった。玄関を入ってすぐの部屋には、赤い木でできた机と二脚の椅子があって、左手にはいま火を入れたばかりの暖炉がある。奥にはもうひとつ部屋があって、食事用のかまどと赤い木のテーブル、二脚の椅子が置かれていた。奥の部屋の入口に扉はなくて、椅子はどちらもとても大きかった。

 わたしはひとまず、入口側の部屋の椅子に座らせてもらった。わたしの身体より一回りも大きい椅子にすっぽりとはまると、なんだか無性に、ほっとした気持ちになった。

 ふと見ると右手側、つまり暖炉の反対には別の部屋の入口がある。こちらには大きな木の扉がついていた。


「それでは食事を作るよ。戻ったばかりだから、あまりいいものはできないけれど」


 かまどにも火を入れながら、ティエラさんは言った。


「干肉と干魚、どちらがいいかな」

「……干肉がいいです。干魚は、もともとよく食べてたので」

「そう答える気がしていたよ」


 お鍋を火にかけて、ティエラさんは戻ってきた。もう一方の椅子に大きな身体を沈めながら、ティエラさんは大きく息を吐いた。……大きな椅子だと思っていたけれど、ティエラさんが座るとちょっと窮屈そうだ。


「さて、あとはスープが煮えるのを待つだけだ。……それで、『万象』について知りたいんだったね」


 さっき、種火のところで訊いたことだ。ティエラさん、覚えていてくれたんだ。


「はい。……皆さんの力と、あの種火や水は、同じものなんでしょうか」

「そうだね、同じといえば同じといえる。引き出し方は違うけれど、どちらも同じ『万象術』の力だ」

「『万象術』?」


 ティエラさんは頷いた。


「世の中で『魔法』と言われているものは、ほとんどの場合『万象術』のことだ。厳密に言えば、他にも『天聖術』や『暗冥術』といったものはあるけれど、それらは定命の人間が扱えるものではないし、扱っていいものでもない……人に扱える唯一の魔法、それが『万象術』と呼ばれるものだ」

「ということは……『万象術』は『魔法』のこと、だと思っていいんでしょうか」

「ひとまずは、それで差し支えないよ」


 ティエラさんは、かまどの方をちらちらと確かめながら、わたしの目を見てゆっくりと話してくれる。ずっと昔、寒い夜に母さんが寝物語を語ってくれた声を、ちょっとだけ思い出す。


「『万象術』は文字通り、天地万象の力を使う魔法だ。天と地の間に満ちる、大地の力・水の力・炎の力・草木の力……そういったものを集めて自在に使いこなす。一言で言ってしまえば、それが万象術だ」

「一言で言えても、本当にやろうとしたらものすごく難しそうですね……」

「そのとおり。万象術の術師たちは、古来たいへんな苦労をして力を使ってきた。『力を集める』『力を純化する』『力を変換する』『力を使う』……それぞれの段階について膨大な研究を重ね、理論と実践を繰り返し、人はようやく力を使えるようになった」

「それはわたしも知ってます。魔法陣や秘薬を用意したり、難しい呪文を唱えたりしないと、魔法は使えないんですよね」

「そう思われてきた。事実、世の中で使われているほとんどの万象術は、古来からの体系に基づいて行使されている。君が見た『種火』も『水源』も、その恩恵の一端だよ。けれど」


 ティエラさんは、またちらりとかまどを見た。今はもう、鍋がぐつぐつ煮える音がはっきり聞こえていて、少しつんとする香ばしい何かの匂いが、ここまで漂ってきていた。


「もうすぐ煮えるね。……けれど、あるとき見つかったんだ。呪文も魔法陣も何もなしで、身ひとつで『万象術』を使いこなせる人間がね」

「それが『万象の闘士』なんでしょうか?」


 ティエラさんは大きく頷いた。


「天地万象の力をその素肌で集め、身体の中の『器』に蓄え、望む時に外に放つことができる――そんな人間が、きわめて稀にだけど存在する。それがわかったのが、ここ十五年くらいのことだ」

「皆さんが言ってる『器』……って、そのことだったんですね……」

「そう。『器』がない人間は、どう頑張っても万象の力を受け止めることはできない。そして大きな『器』を持つ者ほど、たくさんの力を体内に溜め込み、一度に放出できる――つまり、強いってことなんだよ」


 そこまで言って、急にティエラさんは立ち上がった。


「そろそろスープが煮えたみたいだ。取ってくるから、少し待っていてほしい」


 香ばしい湯気が、こちらまでたっぷり漂ってきている。しばらく待っていると、ティエラさんは白木のお盆に木のお椀ふたつを乗せて戻ってきた。


「……わぁ」


 目の前に置かれたお椀の中身に、思わず声が出てしまった。

 少し濁ったスープに、一面、茶色がかった細かな香草が浮いている。その下に、刻まれた赤黒い肉が何切れも沈んでいるのが見えた。

 えっ、こんなに、いいのかな。

 干肉も干魚も、もっと大事に食べるものだと思ってた。嵐や大雪で食べるものがなくなった時に、みんなで分けながら少しずつかじるものだと思ってた。


「干肉、こんなに使っちゃっていいんですか」


 言えば、ティエラさんはやさしく笑ってくれた。


「大丈夫だよ、そろそろ備蓄を入れ替えようと思っていたところだからね。明日にでも市で買い直してくるさ」

「……お肉、高いですよね?」

「高くないさ。銀二枚もあれば一塊買えるから――」

「高いです!!」


 びっくりして、わたしは叫んでしまった。

 銀二枚。銀二枚あれば、麦がどれだけ買えるだろう。野菜も一山丸ごと買えると思う。それに――


「お肉、銀二枚もするなら……わたしのお肉の方が安いですよ」


 ティエラさんは一瞬目を丸くして、それから、大声で笑った。


「君、肉なんてついてないじゃないか」

「でも、干肉の塊を十個くらいならなんとか……銀二十枚のもとは、たぶん取れますよ」


 ティエラさんはまた笑った。


「君、少し前に陛下に言われたことを、もう忘れたのかい? 君の価値を決めるのは君ではないし、それは君の肉の値段でもない」

「それは、わかっていますけど」

「ちっともわかっていないよ。……君は『器』を持っている」


 ティエラさんは、自分の分のお椀を両手で持ち上げてみせた。お椀からはおいしそうな湯気が上がっていて……思わず、お腹が鳴ってしまった。治療院でお湯を使わせてもらったとき、湯上がりに黒パンと薄いスープをもらったけれど、その他に今日は何も食べていなかったから……でも、ティエラさんは、わたしのお腹の音は気にしていないみたいだった。


「考えてみるといい。スープを入れる器を、世の中で君しか持っていないとしたら……誰もスープを取れなくて、飲むこともできなかったとしたら。君だけが器にスープを注いで、それを口にできるのだとしたら」


 ティエラさんの目は急に真剣になった。

 でも、言われていることはよくわからなかった。スープを飲めるのがわたしだけだとしても、それにどんな意味があるんだろう。

 首を横に振るとティエラさんは、今度は何かの悪巧みをするような顔で、笑った。


「だとしたら……どうなるんでしょう」

「世の中のスープを、全部君が独り占めできるんだよ」


 よく、わからない。


「そんなうまい話が、あるんでしょうか……?」

「そうだね、話がうますぎるね。だが、これだけは覚えておいてほしい」


 ティエラさんはお椀を机に置きながら、言った。


「君の『器』はとても貴重な力で、使い方によってはとても危険なものだ。だから、自分を粗末にしてはいけない……君が愚かな行いをすれば、君だけでなく、周りの多くの者たちをも危険に晒すことになる。……まあ、そこは、追々ラピスも教えるだろうけどね」


 言いつつティエラさんは、木の匙をわたしに渡してくれた。


「スープの話をしていたらお腹が空いてきたよ。冷めないうちに飲んでしまおう」

「ありがとう……ございます」


 申し訳なく思いつつ、わたしは一匙、スープを口に運んだ。


「……おいしいかな。口に合うといいんだけど」


 ティエラさんが、やさしく声をかけてくれる。

 わたしは、あわてて首を大きく縦に振った。

 おいしい……なんて一言じゃ、とても言い表せない。そのくらいおいしいスープだった。

 さっきまでお部屋に漂っていた、つんとくる香ばしい辛味が、ぎゅっと濃くなって口の中で弾ける。それだけでもおいしいのに……辛味がおさまった頃に、なんともいえない「おいしさの素」のような何かが、じんわりと広がってくる。

 それが干肉から染み出した味だと気付くのに、しばらくかかってしまった。干肉ってもっと濃くて臭くて、ものすごい塩味がついてるものだと思っていたから……お肉だけを煮出すとこんな味になるなんて、わたし、知らなかった。

 荷馬車で運ばれている間にもらったのは、具もない味もないスープばかりだったから……味のしっかりついてるものを食べるなんて、どれだけぶりだろう。香草の匂いとお肉の味が、身体中に広がっていく気がする。

 肉を噛むと、やっぱり少し塩辛い。けどわたしが村で食べた時ほどには辛くなくて、代わりにスープに漂っていた「おいしさの素」が、もっとずっと濃く染み出してくる。たまらなくおいしくて、いつまででも噛んでいられそうだ。

 名残惜しく飲み込んで、わたしはティエラさんに大きく頭を下げた。


「ありがとうございます! こんなおいしいの……はじめてです」

「そうか。簡単なスープなんだけど、空腹は最高の調味料というし、よほどお腹が空いていたんだね。よければもう少し食べるかい」

「あ、いえ、そんなわけには――」


 わたしが言い終わらない間に、ティエラさんは自分のお椀から干肉をすくって、わたしのお椀に入れてくれた。二切れ、三切れ……申し訳なくておろおろしているうちに、ティエラさんのお椀にはすっかり肉がなくなってしまった。


「君はもう少し肉をつけないといけないからね。身体を作るのも『万象の闘士』の仕事だよ」


 そう言われてしまうと、断るわけにもいかない。

 申し訳なく思いながら、でも口と手は止まらなくて、わたしはあっという間に干肉のスープを飲みきってしまった。

 温かいものが身体に回ると、なんだか急に眠くなってくる。

 椅子の上で身体が崩れ落ちるのを感じながら、わたしはその場で寝こけてしまった。

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