取引と門出

 手を握ったままで顔を上げると、ラピスさんは、思ったとおり目を丸くしていた。


「おいちょっと待て。なんでこの流れでオレになる」


 それでもわたしの手を振り払おうとはせず、ラピスさんはわたしの顔をじっと見つめる。


「言ったじゃねえか。オレは一人がいいって」

「……だから、です」


 声が、ほんの少しだけ震える。


「わたし、剣も槍も持ったことないです。厳しいお師匠様にはきっと呆れられます。淑女のお作法なんてわかりません。だから、ソフィーさんにもきっと見放されます」

「そんなことはありませんわよ。王命である以上、わたくしは何としてでもあなたを――」


 ソフィーさんの声を遮って、わたしは言った。


「だから、気にしてくれないくらいの人がちょうどいいです。……ただ、そばに置いておいてくれればいいです」


 ラピスさんの、深い溜息が聞こえる。でも、わたしはそのまま言葉を続けた。


「お掃除お洗濯、あと北のお料理でよければ、食べるものもちょっと作れます。あんまり、難しいことはできませんけど」


 わたしは、手に力を籠めた。ラピスさんの手を、ぎゅっと握った。


「母さんみたいにかわいがってとか、贅沢言いませんから……ただ、わたしの値打ちの分だけ、やさしくしてくれればいいです」


 ラピスさんの眉間が、困ったように寄っている。

 わたしはラピスさんの、大きな茶色の瞳を見つめながら、言った。


「銀二十枚分、愛してください。……それ以上のことは、してくれなくていいですから」


 わたしがうつむくと、たくさんの溜息が重なって聞こえてきた。


「……アリサ君。君は一つ、大きな勘違いをしているようだ。その誤解は解いておかねばなるまい」


 王様が、重々しい声で言う。

 さっきまでのやさしくて気さくな声とは違う、とても威厳のある低い声だった。


「君の価値がいかほどであるか、決めるのは君ではない。少なくとも私は――東方アナトレー王国国王ヴィクター・ブロンソンは、君にそれ以上の『値』をつけている」


 そこで一度言葉を切って、王様は、とても重々しい声で――神様や天使様にでも話すかのように厳かに、ゆっくりと話し始めた。


「一生分の食事。暖かい服。質の良い靴。一人が余裕を持って暮らすに足る一軒家。一人用のベッド。毛足の長い毛布。そして母親代わりの師。……だがこれらも、あくまで『手付金』にすぎない」


 わたしはびっくりしてしまった。

 全部、さっきわたしが言ったことだ。欲しいものを訊かれて、なんとなく。


「……さっきの全部、覚えてたんですか……?」

「むしろ君は聞き洩らすのかね? 取引相手と交わす言葉は、一言一句が剣であり盾だ。受け損ねれば、その一撃が心臓を貫くこともある……君は今、私と取引をしているのだよ。わかるかね」


 王様の顔は、さっきまでと全然違っていた。

 今はもう全然、やさしそうな髭のおじさんではなかった。険しい顔でわたしを値踏みしている、おそろしい手練れの商人のように見えた。元居た町の店の人たち、わたしを銀二十枚で買った人買い、荷馬車で運ばれた先にいた奴隷商人……わたしがいままでに会った商人のひとたち、全員が束になってかかっても、いま目の前にいる人には勝てないんじゃないか、そんな気さえした。


「君は言葉を知らない。戦いの言葉も取引の言葉も知らない。剣も盾も持たない君を、買い叩くのはたやすいだろうが……私はそれはしない。なぜだかわかるかね」

「……わかりません」


 素直に答えると、険しい顔のままで王様は笑った。


「そうしない方が得だからだ。銀二十枚のものを銀二十枚のままに扱えば、銀二十枚以上の価値にはならない……銀四十枚、銀八十枚、ひいては金貨を投資することで、はじめて輝きを放ち始める。そういう種類のなにものかが、この世には確実に存在しているのだ」

「わたしに……そんな値打ちはないです」

「重ねて言うが、君の価値を決めるのは君ではない」


 王様はいちど、ラピスさんたちの方をじろりと見て、またわたしの目を見た。


「もう一度訊く。君が師と仰ぐ闘士は、『水』のラピス・パリセードでよいかな。今であれば変えてもよいが」

「……はい。大丈夫です」


 震える声で、わたしは答えた。

 ラピスさんが、呆れたように口を開いた。


「言っておくが、オレを選んだからって何かが楽になるわけじゃないからな? 王は――ヴィクター陛下は、おまえが一人前の『万象の闘士』に育つことを望んでおられる。だとすれば、オレたちは陛下の命令を遂行するしかない。そこはわかってるな?」

「はい。……わかってます」


 ラピスさんの言うことはわかる。

 でも、それでも。

 とても厳しいお師匠様と、その指導を耐え抜いた大きくて強い戦士様。

 綺麗な姿と上品な振る舞いで、一分の隙も見せない完璧な淑女様。

 わたしはどちらとも、並んで立てないと思う。

 だったら……わたしには、この人しかいない。


「おそばに、おいてください。ラピスさんがいいです」

「まあ……そう言うならしょうがねえ」


 ラピスさんの空いていた方の手が、わたしの手を上から包んだ。


「よろしくな。……めんどくさいがこうなった以上は、おまえを十二人目の『万象の闘士』に必ず育ててやる」

「応援しますわよ、ラピス」

「私もできるかぎりは協力しよう」


 ソフィーさんとティエラさんも、やさしい声をかけてくれる。

 王様はさっきまでの険しい顔を崩して、今はまた、やさしそうに笑っている。


「よろしい。では、必要なものは手配させよう。王国納税市民としての登録は最優先で行わせる。物資や装備品の手配は、それからの方がやりやすいだろう」

「登録はいつごろだ?」

「明後日の朝までには。徴税長官に話は通しておく」

「相変わらず仕事が早いな。さすが『疾風のヴィクター』だけはある」

「……あの」


 おそるおそる声をあげると、ラピスさんと王様は同時にわたしを振り向いた。


「登録していただくのはありがたいんですけど……その、わたし、納める税金なんて――」

「大丈夫だ、君の分の国民税は王国が立て替えておくからね。『納税市民』というのは、まあ『ある程度の資産を持った、東方アナトレー王国の成人国民』くらいの意味だと思っておいてくれ」


 よくわからないままに首を傾げていると、大きな手に背中を叩かれた。


「ローザリア所属の『万象の闘士』が一人増えるんだね。それは、私も喜ばしいよ」

「確かに、戦う仲間が増えるのはよいことですわね。……私たちの足を引っ張らないでいてくれる限りは」

「おいおい、やめてやれよソフィー」


 ラピスさんが、からかい交じりに言う。


「そういう皮肉を言ってやると、こいつがまたいじけるだろ」

「あら、ほんとのことですのに。ずいぶんその子に優しいんですのね?」

「そりゃあそうだ。なにしろオレは――」


 ラピスさんは、握っていた手を解いた。

 そうして、わたしの肩をそっと抱き寄せてくれた。


「――こいつの師匠なんだからな。師匠は弟子を守ってやらねえと」


 え。

 ラピスさん。

 いいんですか。本当にいいんですか。さっきの今なのに。

 じんわりと目頭が熱くなって、ぽろりと、熱いものがほっぺたにこぼれた。


「っておいおい、なに泣いてんだアリサ。さっきのソフィーの――」

「いえ」


 ゆっくりと首を振りながら、わたしは言った。


「違うんです。……わたし、うれしくって」

「って、オレも泣くほど嬉しがるようなことは言ってねえが?」


 もっと大きく、わたしは首を振った。


「わたし、誰かに守ってもらったことなんてずっとなくて……みんな、わたしが何を言われててもほったらかしで、それどころか、一緒になってひどいこと言ってきたりして……わたし、ずっとひとりで」

「そうか。……そうだったんだな」


 ラピスさんの手が、わたしの肩を撫でてくれる。

 そうされると、また、新しい涙があふれてきた。


「そっか、アリサ。じゃあオレは、いまので銀二十枚分くらい、おまえにやさしくできたのか?」


 その一言で。

 わたしの中で、なにかが……壊れた。


「はい。とっても。……とっても」


 つぶやきながら、わたしは泣いた。

 涙の量がどんどん増えて、そしてだんだん、声が出てきてしまって……

 最後にはうずくまりながら大声をあげて、わたしは、泣いた。

 泣くわたしの背中を、何人もの手がそっと、ずっと、撫でてくれていた。

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