柔肌と馬車

 顔が、かっと熱くなった。

 身体中を巡る血が、全部顔に集まってきたような、そんな気さえする。


(ティエラさんの……お胸……)


 谷間にすっぽりはまりながら感じる、二つの膨らみの感触は……とっても、やわらかい。

 見ていた時は、張り詰めてはちきれそうにも見えていたのだけれど……触ってみると、やっぱり女の人のお胸で。

 ずっと昔、母さんに抱きしめてもらった時みたいに、あったかい。

 そっと誰かの手が、頭を撫でてくれる。ああ、本当に母さんみたい。これは誰の手なのかな、ティエラさんかな――

 と、そこまで考えて、わたしははっと気づいた。


(触っちゃった……これじゃ、ティエラさんがお師匠様に怒られちゃう……!)


「ご、ごご……ごめんなさい!」


 叫んで、わたしはあわてて頭を離した。ティエラさんは相変わらず、優しそうに目を細めてわたしを見ていた。


「気は済んだかい?」

「気は、というか……ティエラさん、お師匠様に――」

「大丈夫だ、問題ねえよ」


 ラピスさんの声がした。


「アリサは、馬車が揺れて倒れかかっただけだろ。不可抗力ってやつだよ」

「え、でも」


 さっきからずっと、馬車は平らな道を走っている。倒れるような大きな揺れなんて全然ない。さっきだって、後ろから押されたからよろめいただけで、別に馬車が揺れたわけじゃ――


「ふふ、そういうことだね。厚意は素直に受け取っておくといいよ、アリサ」


 ティエラさんまで笑っている。


「え、どういうことでしょうか」

「さっきのちょっとした『事故』は、誰のせいでもない、ということですわ」


 ソフィーさんも、笑いながら言う。


「馬車が揺れたための『事故』なら、クロエも……彼女の師匠も何も言えないでしょうよ」

「それよりアリサ、君は満足できたかい? さっきはずいぶん慌てていたけれど、足りなくはないかい?」

「え……えっと、あの」


 なんとなく、状況は理解できたけれど。

 この人たち、どうしてそんなことをしてくれるんだろう。

 さっきまで名前も知らなかったわたしに、どうして、ここまでしてくれるんだろう。


「ティエラさんが叱られなくていいなら、もうちょっと……触りたい、ですけど」

「私の心配をしてくれるのかい、ありがとう。でも大丈夫だよ、不可抗力なら師匠も何も言わないさ」

「でも、どうしてですか? さっき会ったばかりの他人のわたしに……その――」

「私たちと君とは、もう他人ではないからね」


 ティエラさんが、なんだか不思議なことを言ってる……ような気がする。


「手続きにはちょっと時間がかかるかもしれないけれどね。いずれ君は――」


 そこまで言って、ティエラさんは急に口をつぐんだ。後ろにいるラピスさんたちと、なにかの目配せをしているようだった。


「まあ、それはいい。アリサ、君は私にもう少し触りたいんだね」

「……はい」

「師匠の命があるから、私は君に身体を触らせることはできない。けれど、不可抗力の事故でやむをえず身体が触れ合ってしまっても、それは私が関知するところではない」

「はい」


 ティエラさんは目尻を下げて、やわらかく笑った。そうして、ゆっくりと頷いた。


「よく揺れる馬車だね」


 ティエラさんが言った。

 馬車の車輪が、ごとごとと音を立てている。けれど道は悪くないみたいで、馬車はごくごく穏やかに進んでいく。


「ほんと、すごく揺れますね」


 わたしは言った。

 そして、わたしは……ゆっくり身体を倒して、ティエラさんの二つの胸の間に、顔を埋めた。

 柔らかい、あったかい。気持ちいい。

 誰かの、たぶんティエラさんの手が、わたしの髪をゆっくり撫でてくれる。乱れてほつれた髪が、ちょっと恥ずかしいけれど……すぐにそんなことも忘れて、わたしは夢中で、ティエラさんのお胸に顔を押し付けた。




 ◆ ◇ ◆




 ごとん、と馬車が大きく揺れた。

 はっと目を覚ますと、車の大きく開いた前側から、明るい日の光が差し込んできていた。御者さんの姿は見えなくて、茶色のお馬さんは止まったままだ。


「よく眠れたかい、アリサ」


 やさしい声に顔を上げると、褐色の肌の上で、ぷるんとした唇が笑っていた。


「あ……ん……」

「眠いならそのまま寝ているといい。治療院へは私が連れて行ってあげよう」


 そっか、寝ててもいいのか。

 ぼんやりとした頭でそこだけ聞いて、頭をもう一度、もとあったところに戻す。

 ああ。

 ここ、柔らかくってあったかくって、とっても気持ちいい。

 足の下に、手が差し入れられた。そのまま軽々持ち上げられて――そこでようやく、わたしは気がついた。


(わたし……寝ちゃってた。ティエラさんのお胸の上で……!!)


 わたしを抱えたまま、ティエラさんは馬車を降りた。お日様はもう高く上がっていて、きらきらした昼の光の中に、ラピスさんとソフィーさんが立っていた。

 明るい中で見ると、ラピスさんもソフィーさんもほんとに綺麗だ。

 ラピスさんの茶色の髪は、日が差しているところで見るとまっすぐじゃなくて、ゆるく波を打っている。後ろ頭で一本にまとめられた髪は、よく手入れがされたお馬さんの尻尾みたいにつやつや光っている。

 でも、髪が一番綺麗なのはやっぱりソフィーさんだ。吸い込まれそうな長い黒髪にはほつれも何もなくて、寝ている時とかどうしているのかちょっと気になってしまう。人間は誰でも、寝たら髪がくしゃくしゃになると思うのだけど、ソフィーさんはそんなことないんだろうか?

 じっと見ているとラピスさんが、腕をぐるぐる回しながら、こちらに話しかけてきた。


「ん、アリサは起きたか?」


 わたしは、ティエラさんの腕の中で小さく頷いた。


「起きてます。……でもティエラさんに、とても申し訳ないことをしてしまって」

「ん、どうしたんだい?」


 降ってくるティエラさんの声がやさしくて、胸の奥がちょっと痛い。


「わたし、たぶん……ティエラさんのお胸、ずっと枕にしちゃってましたよね……」

「そうだね。でも、それがどうかしたのかな?」


 ああ、やっぱり!!

 恥ずかしすぎて、顔がかっかと熱くなる。きっと今のわたしは、茹でた蛸みたいに真っ赤だと思う。


「女の人のお胸、枕にするとか……ちょっと、いくらなんでも、それは――」

「気にすることはないさ。馬車が揺れたせいだよ」


 さすがにここまで馬車のせいにしちゃうと、馬車がちょっとかわいそうになってくる。


「それよりごらんなさいな。あれが、王都ローザリアの西門ですわ」


 ソフィーさんが指した方向を見ると、見渡す限り続く石の壁の真ん中に、大きな鉄の門がある。


「アリサ、あなたは幸運ですわよ。この時季に、はじめてローザリアを見られるのですから」

「そう、なんですね……」


 答えるときに、ちょっとだけあくびが混じってしまった。

 幸運と言われても、正直全然実感がない。あるのはただの鉄の扉で、とっても大きくはあるけど、大きさの他にすごいところはないように見える。

 それより、できればもうちょっと寝たいな……荷馬車に詰め込まれてたときは、狭くて臭くて苦しくて、ちゃんと眠れてなかったから。お布団はなくてもいいから、できれば誰にも邪魔されないところで。


「アリサ、立てるか?」


 わたしの足を地面に下ろしながら、ティエラさんが言う。

 さっきまで考えていたことを、わたしは頭から追い出した。


「あ、はい……だいじょうぶ、です」


 ちょっとふらっとする足で、わたしは歩き出した。

 わがまま言っちゃいけない。皆さん、信じられないくらいわたしにやさしくしてくれて……わたし、なんにもできないただの「傷モノ」の「不良品」なのに。

 いつかはきっと、皆さんもわたしを見捨てるんだろうけど……でも今は、なるべく呆れられないように、見放されないようにしなきゃ。迷惑かけて怒らせちゃ、だめだよね。


「アリサ、足元は大丈夫か? 歩きづらいようならまたティエラに――」

「あ、いえ、いいんですラピスさん。……ちゃんと、歩けますから」


 ラピスさんに手を引かれて、わたしはローザリアの門の前に立った。

 門の両脇に立つ鎧の兵士さん二人が、きびきびした動きでわたしに敬礼をしてくれた。……いや、普通に考えたら、敬礼されたのは「万象の闘士」であるラピスさんだよね。変なこと考えちゃってごめん、兵士さん。

 兵士さんたちが合図を送ると、重たい音と共に鉄の門が開いていく。その向こうに広がる景色を見て、思わずわたしは声をあげてしまった。


「え……わぁ、これって……」


 目は、すっかり覚めてしまった。引き寄せられるように、足が門のむこうへ向かう。

 後ろからソフィーさんのうれしそうな、ちょっと得意そうな、声がした。


「これが、四月のローザリアですわ」

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