二章 花咲く王都で運命を選べば
呼名と身上
ごとごとと、車輪の音が下から響いてくる。
わたしは馬車に乗っていた。あそこへ行くまでに押し込められていた荷馬車じゃなくて、人が乗る馬車だ。
箱のような車は前が大きく開いていて、そこから御者さんと茶色のお馬さんの背中が見える。空はまだ暗いけれど、東の空にはほんの少しだけ赤味が差していた。
そういえば、もうずいぶん日の光を見ていない気がする。荷馬車でどこかへ連れていかれるのは、決まって夜の間だったから。
今、わたしは三人の女の人たちと一緒に「王都」へと向かっていた。王都というのは
「私はティエラ・フローレス。
「『万象の闘士』……って、本当にいたんですね……」
ぽかんと口を開けるわたしを見て、女の人三人は楽しそうに笑った。
「他国ではわたくしたち、どんな感じの噂になってるのかしらね。……わたくしはソフィー・プロスパラス。同じく『万象の闘士』ですわ」
長い黒髪の、赤い胸当てを着けていた小柄な女の人が言った。ティエラさん以外のお二人は、いまは外套で身体を隠しているけれども。
「さあなあ。化け物か精霊か何かみたいに言われてる、ってのは聞いたことがあるけどな……あぁ、オレはラピス・パリセード。同じく『万象の闘士』だ」
茶色の髪を一本にまとめた、青い胸当ての女の人が言った。
みんな、名字もついた華やかな名前だ。……自分の名前を言うのが、ちょっと恥ずかしく思えてくる。
「で、おまえの名前は? 歳はいくつだ? どこから連れてこられた?」
「一度に多くを訊くものではありませんわ、ラピス。……あなた、まずは名前を教えてくださいな」
ああ、やっぱり訊かれた。
少し憂鬱になりつつ、答える。
「……アリサです」
「名字は?」
「ありません。イヴァンの娘、アリサです」
ほう、と、三つの声が重なった。
「お父様はイヴァン殿とおっしゃるのですね。お歳はいくつですの? 見た感じ、子供ではないようですけども」
「十六になったばかりです」
「やっぱり子供じゃなかったな。酒はいけるくちか?」
「ちょっとちょっと、ラピス」
ソフィーさんが、ラピスさんに呆れたような目を向けた。
「それ、いま訊くことですの?」
「大事なことだぞ?」
「そりゃあ、毎日毎夜なにかしら飲んでるあなたにとっては、大事なことかもしれませんけどねえ――」
皮肉たっぷりのソフィーさんを遮って、ラピスさんは続けた。
「『水の力』で身体が冷えてるはずだからな。温めるには酒がいちばんいい。アリサさえ大丈夫なら、衛兵塔でエールを少しばかり拝借してくるが、どうする」
「せめてハーブティーになりませんの?」
「ハーブティーが常備してある衛兵詰所とか、聞いたこともねえな」
「だからって、仮にも初対面の娘さんにいきなり――」
ラピスさんとソフィーさんが、言い争いを始めてしまった。
どうしよう。
わたしのせいだろうか。わたしの飲み物のために、悪いことが起こってるんだろうか。
だったら、早く止めなきゃ。
わたしのせいで喧嘩になっちゃったら……とばっちりを貰うのは、いつもわたしだから。
「あ、あの」
言い争うお二人に、わたしはおそるおそる声をかけた。
「わたし……どっちでもいいです、ので」
お二人が、一斉にわたしの方を振り向いた。
ラピスさんが、うれしそうに笑ってる。
「ってことは、いけるくちなのか?」
「あ、いえ……お酒、飲めないですけど」
お二人が、同時に首を傾げた。
「でしたら、どちらでもよくはないと思いますけど」
「あ。そ……そうですね……」
「ま、酒が無理ならしょうがねえな。なにか飲みたいものはあるか、アリサ?」
飲みたいもの。って、なんだろう。
お水やお湯の他に飲むものといったら、スープや山羊のミルクくらいしか思いつかない。けどどっちも、飲み物というよりは食事だし。
「……お水でいいです」
あー、と、三つの溜息が重なった。
「悪いがこの辺に飲める水はねえな。街まで出れば魔術で浄化したやつがあるんだがな」
「ということはアリサ。君は水がきれいな土地から来たのかな?」
ティエラさんが、とっても穏やかな声で口を挟んでくれた。
ちょっと、ほっとする。
「はい。わたしの住んでいたところは、もっとずっと寒くて……普段は川の水を飲んでたんですけど、川が濁ったときは井戸のお水を分けてもらってました。雪解け水が土の下に流れてるから、掘りさえすればお水が湧くんです」
ティエラさんに向けて、ゆっくりと話す。
ティエラさんは狭い中で窮屈そうにしながら、でもしっかりと頷きながら、わたしの話を聞いてくれた。褐色の肌に銀髪の人は、わたしは初めて見るのだけれど……だのになぜか、死んだ母さんと話しているような気分になってしまう。
こんなふうにお話を聞いてくれる人、母さんが死んでしまってからは……ずっと、いなかった気がする。
「……ようやく話が元に戻りましたわね」
「脇道に逸らしたのは誰だよ」
「あらあら、まるで自分じゃないかのような物言い」
ラピスさんとソフィーさんが、また言い合いを始めそうになっている。けど、ティエラさんが小さく手を挙げると、お二人の声はしなくなった。
「ということは、国内の北のあたりかな。ステノ港は知っているかい?」
「たぶん……海を挟んだ向かいです。わたしは港の近くに住んでたんですけど、
黒い綺麗な瞳に見つめられるのが気恥ずかしくて、わたしは少しうつむいた。
すると、目に入るものが全部、ティエラさんのとっても大きなお胸になってしまった。……下の半分は銀色の胸当てで覆われてるけれど、上の半分は素肌のままで……つやつやしてて、剥きたての卵みたいにぷるぷるしてて……触ったら、とっても気持ちよさそうだ。
銀色の胸当てには、見たことのない花がいくつも彫り込まれている。花びらがたくさん重なっていて、とても細かくて綺麗だ。褐色つるつるのお胸と並ぶと、両方のいいところを引き立て合っているけれど……お胸、ほんとうに大きくて、走ったりしたら胸当てからこぼれてしまいそう。戦うときとか、大丈夫なんだろうか?
「だとすると、
ティエラさんの言葉が、もう頭に入ってこない。
わたしの目はすっかり、大きくて豊かなお胸に釘付けになっていた。
触ったらぷりぷりしてるのかな。それとも柔らかいのかな。わたしの掌じゃ包めないくらい大きいな、
「アリサ。……触ってみたいのかい?」
心臓が、大きく跳ねた。
お胸ばかり見てたの、気付かれてしまった。
「え、あ、いえ、そんなつもりじゃ――」
顔を上げると、ティエラさんは目を細めて笑っていた。
とっても、やさしそうに笑っていた。……叱ったり咎めたりって感じじゃ、とりあえずはないみたい。
「隠さなくてもいい。どうしても皆、私の胸には目がいくものらしいからね。……触りたいのかい?」
黒い目が、穏やかに細められる。
本当に、お母さんみたいな人だ。
……だったらお母さんにするみたいに、ちょっと甘えてみても、許してくれるだろうか。
「は……はい。触ってみたい……です」
「ふふ、そうか」
ティエラさんがゆっくり首を振った。綺麗な銀髪が、耳の脇でひとすじ揺れた。
「申し訳ないがそれはできないんだ。師匠に、誰にも触らせるなと言われていてね。むやみに触らせると私が叱られてしまう」
「ならなんで訊いた、ティエラ!」
後ろで、ラピスさんとソフィーさんが笑っている。
わたしは、ちょっとがっかりしてしまった。母さんみたいな人だと思ったけど、やっぱり、母さんとは違ってた。
でもしょうがないよね。会ったばかりの人に、そんな無理を言えるわけがないよね。
「いや、この子があまりにも熱心に見ていたものだからね。つい」
「あ、いえ、ちがい……ます」
あわてて、わたしは言い訳を探した。
「彫り物のお花、見たことがないのだったから……これ、なんだろうと思って」
「ああ、
ティエラさんの視線が、下を向いた。
「確かに、
ティエラさんが、そこまで喋った時だった。
急に、背中を強く押された。
「きゃ……!」
小さく叫びながら、前の方に倒れてしまう。
目の前には……ティエラさんの、お胸。
「街路にも庭園にも、たくさんの薔薇が――な!?」
ティエラさんの、うろたえる声。
「あー、なんか馬車が揺れちまったなあ」
変に間延びした、ラピスさんの声。
二人の声を、聞きながら。
わたしの顔は、ティエラさんの大きな二つの膨らみの間に、すっぽりと収まってしまっていた。
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