二章 花咲く王都で運命を選べば

呼名と身上

 ごとごとと、車輪の音が下から響いてくる。

 わたしは馬車に乗っていた。あそこへ行くまでに押し込められていた荷馬車じゃなくて、人が乗る馬車だ。

 箱のような車は前が大きく開いていて、そこから御者さんと茶色のお馬さんの背中が見える。空はまだ暗いけれど、東の空にはほんの少しだけ赤味が差していた。

 そういえば、もうずいぶん日の光を見ていない気がする。荷馬車でどこかへ連れていかれるのは、決まって夜の間だったから。


 今、わたしは三人の女の人たちと一緒に「王都」へと向かっていた。王都というのは東方アナトレー王国の王様がいるところで、四月の今は花が綺麗だと、ティエラさん――わたしに外套を貸してくれた、とても大きな女の人――が教えてくれた。普通の大人ならゆったり座れる馬車の席で、ティエラさんだけは狭そうに背中を丸めている。一本にまとめられた太い銀色の三つ編みが、褐色の背中の上で揺れていた。


「私はティエラ・フローレス。東方アナトレー王国で『万象の闘士』をやっている者だ」

「『万象の闘士』……って、本当にいたんですね……」


 ぽかんと口を開けるわたしを見て、女の人三人は楽しそうに笑った。


「他国ではわたくしたち、どんな感じの噂になってるのかしらね。……わたくしはソフィー・プロスパラス。同じく『万象の闘士』ですわ」


 長い黒髪の、赤い胸当てを着けていた小柄な女の人が言った。ティエラさん以外のお二人は、いまは外套で身体を隠しているけれども。


「さあなあ。化け物か精霊か何かみたいに言われてる、ってのは聞いたことがあるけどな……あぁ、オレはラピス・パリセード。同じく『万象の闘士』だ」


 茶色の髪を一本にまとめた、青い胸当ての女の人が言った。

 みんな、名字もついた華やかな名前だ。……自分の名前を言うのが、ちょっと恥ずかしく思えてくる。


「で、おまえの名前は? 歳はいくつだ? どこから連れてこられた?」

「一度に多くを訊くものではありませんわ、ラピス。……あなた、まずは名前を教えてくださいな」


 ああ、やっぱり訊かれた。

 少し憂鬱になりつつ、答える。


「……アリサです」

「名字は?」

「ありません。イヴァンの娘、アリサです」


 ほう、と、三つの声が重なった。


「お父様はイヴァン殿とおっしゃるのですね。お歳はいくつですの? 見た感じ、子供ではないようですけども」

「十六になったばかりです」

「やっぱり子供じゃなかったな。酒はいけるくちか?」

「ちょっとちょっと、ラピス」


 ソフィーさんが、ラピスさんに呆れたような目を向けた。


「それ、いま訊くことですの?」

「大事なことだぞ?」

「そりゃあ、毎日毎夜なにかしら飲んでるあなたにとっては、大事なことかもしれませんけどねえ――」


 皮肉たっぷりのソフィーさんを遮って、ラピスさんは続けた。


「『水の力』で身体が冷えてるはずだからな。温めるには酒がいちばんいい。アリサさえ大丈夫なら、衛兵塔でエールを少しばかり拝借してくるが、どうする」

「せめてハーブティーになりませんの?」

「ハーブティーが常備してある衛兵詰所とか、聞いたこともねえな」

「だからって、仮にも初対面の娘さんにいきなり――」


 ラピスさんとソフィーさんが、言い争いを始めてしまった。

 どうしよう。

 わたしのせいだろうか。わたしの飲み物のために、悪いことが起こってるんだろうか。

 だったら、早く止めなきゃ。

 わたしのせいで喧嘩になっちゃったら……とばっちりを貰うのは、いつもわたしだから。


「あ、あの」


 言い争うお二人に、わたしはおそるおそる声をかけた。


「わたし……どっちでもいいです、ので」


 お二人が、一斉にわたしの方を振り向いた。

 ラピスさんが、うれしそうに笑ってる。


「ってことは、いけるくちなのか?」

「あ、いえ……お酒、飲めないですけど」


 お二人が、同時に首を傾げた。


「でしたら、どちらでもよくはないと思いますけど」

「あ。そ……そうですね……」

「ま、酒が無理ならしょうがねえな。なにか飲みたいものはあるか、アリサ?」


 飲みたいもの。って、なんだろう。

 お水やお湯の他に飲むものといったら、スープや山羊のミルクくらいしか思いつかない。けどどっちも、飲み物というよりは食事だし。


「……お水でいいです」


 あー、と、三つの溜息が重なった。


「悪いがこの辺に飲める水はねえな。街まで出れば魔術で浄化したやつがあるんだがな」

「ということはアリサ。君は水がきれいな土地から来たのかな?」


 ティエラさんが、とっても穏やかな声で口を挟んでくれた。

 ちょっと、ほっとする。


「はい。わたしの住んでいたところは、もっとずっと寒くて……普段は川の水を飲んでたんですけど、川が濁ったときは井戸のお水を分けてもらってました。雪解け水が土の下に流れてるから、掘りさえすればお水が湧くんです」


 ティエラさんに向けて、ゆっくりと話す。

 ティエラさんは狭い中で窮屈そうにしながら、でもしっかりと頷きながら、わたしの話を聞いてくれた。褐色の肌に銀髪の人は、わたしは初めて見るのだけれど……だのになぜか、死んだ母さんと話しているような気分になってしまう。

 こんなふうにお話を聞いてくれる人、母さんが死んでしまってからは……ずっと、いなかった気がする。


「……ようやく話が元に戻りましたわね」

「脇道に逸らしたのは誰だよ」

「あらあら、まるで自分じゃないかのような物言い」


 ラピスさんとソフィーさんが、また言い合いを始めそうになっている。けど、ティエラさんが小さく手を挙げると、お二人の声はしなくなった。


「ということは、国内の北のあたりかな。ステノ港は知っているかい?」

「たぶん……海を挟んだ向かいです。わたしは港の近くに住んでたんですけど、東方アナトレー王国の商人さんが、ステノからよく船で来てました」


 黒い綺麗な瞳に見つめられるのが気恥ずかしくて、わたしは少しうつむいた。

 すると、目に入るものが全部、ティエラさんのとっても大きなお胸になってしまった。……下の半分は銀色の胸当てで覆われてるけれど、上の半分は素肌のままで……つやつやしてて、剥きたての卵みたいにぷるぷるしてて……触ったら、とっても気持ちよさそうだ。

 銀色の胸当てには、見たことのない花がいくつも彫り込まれている。花びらがたくさん重なっていて、とても細かくて綺麗だ。褐色つるつるのお胸と並ぶと、両方のいいところを引き立て合っているけれど……お胸、ほんとうに大きくて、走ったりしたら胸当てからこぼれてしまいそう。戦うときとか、大丈夫なんだろうか?


「だとすると、北方ボレアス三島のどこかか……そんな遠くから、こんなところにまで連れてこられてしまったんだね。かわいそうに」


 ティエラさんの言葉が、もう頭に入ってこない。

 わたしの目はすっかり、大きくて豊かなお胸に釘付けになっていた。

 触ったらぷりぷりしてるのかな。それとも柔らかいのかな。わたしの掌じゃ包めないくらい大きいな、かぶよりも大きいな、かぼちゃとだったらどっちが――


「アリサ。……触ってみたいのかい?」


 心臓が、大きく跳ねた。

 お胸ばかり見てたの、気付かれてしまった。


「え、あ、いえ、そんなつもりじゃ――」


 顔を上げると、ティエラさんは目を細めて笑っていた。

 とっても、やさしそうに笑っていた。……叱ったり咎めたりって感じじゃ、とりあえずはないみたい。


「隠さなくてもいい。どうしても皆、私の胸には目がいくものらしいからね。……触りたいのかい?」


 黒い目が、穏やかに細められる。

 本当に、お母さんみたいな人だ。

 ……だったらお母さんにするみたいに、ちょっと甘えてみても、許してくれるだろうか。


「は……はい。触ってみたい……です」

「ふふ、そうか」


 ティエラさんがゆっくり首を振った。綺麗な銀髪が、耳の脇でひとすじ揺れた。


「申し訳ないがそれはできないんだ。師匠に、誰にも触らせるなと言われていてね。むやみに触らせると私が叱られてしまう」

「ならなんで訊いた、ティエラ!」


 後ろで、ラピスさんとソフィーさんが笑っている。

 わたしは、ちょっとがっかりしてしまった。母さんみたいな人だと思ったけど、やっぱり、母さんとは違ってた。

 でもしょうがないよね。会ったばかりの人に、そんな無理を言えるわけがないよね。


「いや、この子があまりにも熱心に見ていたものだからね。つい」

「あ、いえ、ちがい……ます」


 あわてて、わたしは言い訳を探した。


「彫り物のお花、見たことがないのだったから……これ、なんだろうと思って」

「ああ、薔薇ばらかい?」


 ティエラさんの視線が、下を向いた。


「確かに、北方ボレアス三島のあたりじゃ咲いてないだろうね。でもそれなら幸運だった、王都じゃあと半月ほどもすれば――」


 ティエラさんが、そこまで喋った時だった。

 急に、背中を強く押された。


「きゃ……!」


 小さく叫びながら、前の方に倒れてしまう。

 目の前には……ティエラさんの、お胸。


「街路にも庭園にも、たくさんの薔薇が――な!?」


 ティエラさんの、うろたえる声。


「あー、なんか馬車が揺れちまったなあ」


 変に間延びした、ラピスさんの声。

 二人の声を、聞きながら。

 わたしの顔は、ティエラさんの大きな二つの膨らみの間に、すっぽりと収まってしまっていた。

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