第10話

 ヤマカワの基本的な検査は滞りなく進んだ。ひかりは約1週間ヤマカワと関わっていく中で、ヤマカワが何が出来て何が出来ないのか、どの程度の筋力があるのかをある程度把握出来ていた。入院してからヤマカワの状態に変化があった訳ではなく、もともと入院前から出来ていたこととそうで無いことが具体的に分かってきたということだ。

 そして予定通りヤマカワの点滴治療が開始した。刺青で覆われたあの腕に点滴針を設置することを看護師の誰もが遠慮した。しかしどうやらその日担当だった中山が奮闘して点滴ルートを確保したらしい。それを知ったひかりは中山が経験と指の感覚を頼りにヤマカワの緑色の腕にから血管を探り出すところを想像して思わず口元が緩んだ。

 一度点滴治療が始まると、約2週間効果を確認しながら薬剤を調整したり重篤な副作用が無いか確認するために入院が必要になる。ひかりはヤマカワの退院の時期を予測しながら、退院後のことも視野に入れて動かなければならない。

 ヤマカワの病室に行くと今日はカガワが一人で面会をしていた。口数の少ないカガワとは、ひかりはほとんど会話を交わしていないため少し緊張しながら2人に挨拶する。

「失礼します、担当の橋本です。ヤマカワさん、点滴治療が始まったみたいですね。体調や気分などお変わりないでしょうか?」

ヤマカワはやはり天井を見つめたまま動かない。そしてカガワも軽く会釈するだけで視線が合うことは無い。ひかりは会話の進め方に戸惑いながらもどうにか思考を凝らす。

「今日はずっと雨ですね。」そういいながら窓の外に目をやる。しかし2人から返事はなく、5分ほど沈黙が続く。

「ヤマカワの具合はどうですか。」突然ぼそっと聞こえてきた言葉にひかりはすぐには反応出来なかったが、それがカガワから出た言葉だと気がつくのに時間がかかる程、最低限の声量だった。

「あ、ヤマカワさんですね。一昨日から点滴の治療が始まって、特に目立った副作用も無く順調に経過してると思います。」ひかりはなるべく明るい印象を持たせる話し方を心がけた。

「そうですか、飯は食ってるんですか?」相変わらずの声量でカガワが続ける。

「えっとそうですね、たくさんという訳では無いですが。ホンダさんから伺った様に、目の前のテーブルに配膳するとご自身でお肉やご飯を少しずつ召し上がっていますね。」そうですか、とカガワの返事が病室に消えてゆく。そして少しの間を置いてカガワは目線をヤマカワの方に向けた。

「ちゃんと食って下さいよ、兄貴。」とカガワは優しさと厳しさを含んだ声で今度はしっかりとヤマカワに伝えた。ヤマカワは変わらず視線の先を天井に向けている。

 ひかりはカガワの言った兄貴という言葉に興味を持った。ヤマカワとカガワは外見では似ている要素がほとんど無い、もしかしたら兄弟のように親しい関係だったのかも知れない。

「良かったらヤマカワさんのことを教えて頂きたいのですが。」ひかりは恐る恐るカガワに頼んだ。

「どういうものが好きで、どういう性格か、とか簡単でも良いので。」

そういうとまたしばらくカガワは沈黙を作った。そして細く息を吸う音とともに

「そうですね、昔気質の男って感じです。真っ直ぐで自分の信念を曲げねえ感じで、好きなものは特に、知らないけど。ただ面倒見の良い人です。」

 カガワの言葉から、ヤマカワを慕っている気持ちがすぐに伝わった。そうか、ヤマカワは後輩に慕われるような存在なのだとひかりはヤマカワの貴重なパーソナリティを感じとった。

「そうですね、こうして毎日面会に来られる同僚の方がいるのをみると、きっと皆んなから慕われているんでしょうね。」ひかりはそう言ってヤマカワの顔を見たが、やはり天井を見つめる視線はそのままだった。

 点滴治療で少しでもヤマカワの症状が良くなれば良いのだが、今のところ目に見える進展は無さそうだ。

「看護師さんも、大変すね。」

また最低限の声量でぼそっと差し出された労いの言葉が、ひかりにはとても意外だった。

「こんな、何も出来ない人間も毎日見ないとですもんね。」カガワはヤマカワを見ながら、相手に感情を読ませないトーンでそう言った。

「いえ、ヤマカワさんは出来ることを頑張って下さっています。それに、私達は職業としてやらせて頂いてますが、そうではない家族さんやホンダさん、カガワさんのような方達は本当に凄いと尊敬しています。」そういうといやいや、とカガワはまた視線を逸らし俯いてしまった。

 ひかりは、どうしても聞いておかなければならないことがあった。

「あの、カガワさん。ヤマカワさんの今後のことなのですが」恐る恐る声に出してみる。

「このまま治療が進んでも車いすや介護が必要な状態で退院しなければならないことも可能性としてあります。その時はどうなさるか、イメージされていることはありますか?」希望を持って治療をしている患者家族にとって、あまり聴かれたくない質問であることは承知しているが、これは退院にむけた支援の一つとしてとても大切なことでもある。もし何か介護サービスが必要となると、それについての説明や手続きが必要になり、実際にサービスが開始されるまでかなり時間を要するからだ。ひかりは自分にそう言い聞かせながら勇気を出して言ったが、カガワは考え込むように黙ってしまった。

「たとえば、ヘルパーさんを雇いながらお家で暮らすのか、ヤマカワさんが入れる施設を探すのか、とかそういうお話はまだされたことは無いですか?」具体的な例を出した方がイメージがしやすいと思いそう続けたが、カガワは黙ったままだ。 

 腕を組んで眉間に皺を寄せたカガワを見つめながら、ひかりはこの質問を今すべきでは無かったかも知れないと後悔した。やはり主治医を通して然るべき面談の場を作って病状説明とともに今後の方針も確認して貰う方が良い。前もって看護師が患者家族の意向を確認するにしても、ヤマカワのケースは複雑過ぎるために自分はあまりしゃしゃり出ない方が良かった。そんな思いが膨らんで来た時に、やっとカガワが顔を上げた。

「兄貴はたぶん、そうゆうことは望んで無いと思います。人に迷惑かけるくらいなら、死にたいって考える人です。」

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