第9話

 休憩から上がるとまず、休憩中に自分の患者に変わったことが無かったかスタッフに確認する。そして次に休憩に行くスタッフから引き継ぎを貰う。ひかりはまだ覚醒が十分でない脳みそに緊張感を与えるため、最初に先輩に引き継ぎを貰いに行く。そして変わったことが無いか後輩にも順に声をかける。

 自分と交代で2時から休憩に入る先輩が休憩室に向かったのと入れ違いに、後輩の中山がナースステーションに戻ってきた。そして、申し訳無さそうにひかりに近づいてきた。

「橋本先輩、ヤマカワさんなんですけど、ナースコールがあって、行ったらシーツまで失禁で汚染してました。これから更衣の用意するんですけど、一緒に良いですか?」少し崩れてしまっている中山のまとめ髪を見ながらそれを聞いて、ひかりは一瞬誰のことか分からずすぐには返答出来なかった。え?あのヤマカワがナースコールを?しかも失禁?今までに無かったことだ。

「うそ、ヤマカワさんがナースコールを押してくれたなんて、初めてだわ。ありがとう、たぶん寝る前にお茶をたくさん飲んだからだと思う。すぐ行くね。」気を遣って更衣の準備も一人でやろうとする中山を追いかけ、一緒にワゴンの上へシーツや病衣、オムツ、ビニール袋など必要な物を乗せていく。

 準備室からヤマカワの部屋へ向かう前に、ひかりはふと思い出して中山に伝える。

「あのね、中山さん。ヤマカワさんの陰茎に腫瘤みたいなのがあるけど、それは病的なものじゃないから安心してね。えっと、ビーズっていうみたいなんだけど。なんていうか、私も初めて見た時ちょっとびっくりしたんだけど、とにかく病変じゃないから大丈夫なの。」

ひかりは後輩の中山がヤマカワのケアに戸惑わないように先に言っておいた方が良いと考えたのだが、寝起きのせいか上手くまとめて伝えることが出来ずかえって混乱させてしまった。

「え、ビーズ?あー、えっと、腫瘤みたいなのがあるけど問題無いってことなんですね。そーゆーのがあるんですか?私もあまり知らないんですけど、とにかく分かりました。入れ墨がすごくって点滴のルートを取りにくそう、っていうのは中川が話してたから知ってるんですけど。」男性看護師の中川と中山は同期だったが、体育会系で明るい中川と比べると、中山は真面目で大人しい印象の持ち主で、2人が交流しているのを見ることは珍しかった。ひかりは中川がヤマカワのことを中山に話していることを意外に思いながら、後輩同士がちゃんと交流が出来ていることを嬉しく思った。

「きっと中川くん、中山さんにビーズのこと話すのは気まずかったのかもね。私と保清した時もそうみたいだったし。」

ヤマカワの部屋に入ると、休憩前と変わらずベッドの上で天井を見つめて横たわっているヤマカワが居た。

「ヤマカワさん、ナースコール押して下さったんですね。今から服とシーツをきれいにしますね。」そう言ってひかりは上半身の服も尿で汚染されているのを確認し、シャツのボタンを外していく。

 鱗模様の鮮やかな緑を前に、やはり中山も驚いている様子があった。ひかりはヤマカワの左側で淡々と更衣を進めていく。ヤマカワの汗と尿で湿った背中を、濡らしたタオルで拭き取る。

「わあ、きれい。私こんなきれいな入れ墨初めて見ました。」

中山の声を聞き、自分の時と反応が全く同じなことに、思わずくすっと笑ってしまったひかりは「そうね、本当に。」とうなずく。

「この天女さん?先輩と同じところに黒子がありますね。」中山がそういってひかりの方を見る。そう言われると確かに、ひかりと同じ右目と眉毛の間、ちょうど瞼の上に黒子が書かれていた。

「本当だ。ヤマカワさん、見て下さい。私もここに黒子があるんですよ。」そう言ってヤマカワの目に顔を近づける。

 その時、ヤマカワはしっかりとひかりの方を見た。そしてその目でひかりの目の上の黒子を間違いなくとらえたのをひかりは感じた。そして少し口元が緩んだような、表情が柔らかくなったような、醸し出す空気が変わるのを感じた。ひかりはその反応に驚いたと同時に、初めてヤマカワと意思疎通がとれた気がして嬉しく思った。

「この天女さん?というか観音様ですかね。本当に綺麗で見惚れてしまいます。」そういいながら背中を拭き終わり、新しい服を着せると服とシーツを皺のないように整えていく。

「ヤマカワさん睡眠の邪魔をしてしまいすみませんでした、きれいになりましたので朝までゆっくり寝て下さいね。」ひかりはそう言って部屋から出ていった。ふと、そういえばホンダはヤマカワが失禁したことは無いと言っていたのを思い出す。それは夜中も尿意の度に起きてトイレに行っていたか、トイレに行けるまで我慢をしていたということになる。ならばヤマカワは今夜、我慢することをやめたのだろうか。せっかく看護師がいるのだから、下の世話をしてもらおう、っといった考えになったのだろうか。それとも、もう全てがどうでも良くなってしまったのか。あるいは、ホンダやカガワに世話をしていた時と違い、気を張らずにぐっすり眠れると感じてくれたのかも知れない。残念ながら失禁でシーツが汚れてしまい、結果として起こしてしまうことになったのだが。それでもやはりヤマカワは今回の入院で安心感のような物を感じてくれているのかも知れないと、ひかりは前向きに捉えることにした。ヤマカワが退院するまでの間、その安心感が脅かされることの無いよう、もっとヤマカワのことを理解して療養環境を整えなければと思った。

 ナースステーションに戻ったひかりは、ヤマカワの早速カルテを開き、『夜間はオムツを使用する』とケアの項目を付け足した。

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