第8話

 夕食後のケアを終えると、看護師は30分ずつ交代で食事休憩に入る。その後は寝る前のケアとして再びトイレ誘導のラッシュと眠前の薬を配る作業、そして点滴投与も多い時間になる。ひかりが眠前の配薬を終えてヤマカワのトイレ誘導を始めたのは21時半頃だった。22時には一度メンバー全員で集まって報告し合わなければならないため、やや急ぎ足で進めていく。

 ひかりは初日と同じように、トイレにヤマカワを誘導してドアの前で待機することにした。しばらくすると、便座を立てる音が聞こえ、ひかりはすぐに中を覗いた。ヤマカワは立った状態で排尿をしているところだった。両足でしっかりと身体を支え、傾くことなく立位を保っている。と思ったがズボンを上げる時に少しふらつく様子があり、ひかりは思わず中に入ってそっとヤマカワの背中を支えた。そしてしっかり便器の中に排尿があるのを確認する。尿の色が濃い、脱水にならないように飲水を薦めなくては。

「ヤマカワさん、少しふらつくみたいなので立ってトイレをするのは1人だと危ないかも知れませんね。」そう声をかけるが、ヤマカワはやはり無反応に腰を車椅子に下ろす。

 ひかりは既にヤマカワは動けないのではなく自分の意思で動かないのだと確信を持っていた。しかし看護師や医師の質問や声かけに一切無反応なところや食事やトイレの場面を見られることに拒否的なところなど、これからの検査や治療においての関わり方はまだまだ難点がある。

 ヤマカワが何故動きたくないのか、見られたくないのか、応えたくないのか、それが分かる日が来るのだろうか。何にせよヤマカワのことを少しずつ理解していくことが担当であるひかりの課題だった。

 ひかりは、トイレを終えたヤマカワに脱水予防のため飲水を勧めた。カップで飲むのが難しい人のために注水口が細長く作られた吸い飲み容器をヤマカワの唇に当てる。

「ヤマカワさん、水分を取らないと脱水になってしまうのでひと口どうですか」そういいながら少しずつ口に水を含ませていく。意外とヤマカワはあっさりと水を飲みこみ、抵抗することなく吸い飲み容器の中身を全て飲んでしまった。しかしベッドへの移乗はまだやって見せてはくれないようだった。ひかりはヤマカワの乗った車椅子をベッドの近くに寄せて遠くから見守り、ヤマカワが横になるのを確認してから布団を整えて消灯した。

 消灯後に夜勤の看護師で各受け持ち患者の情報を共有し合う。ひかりは術後の患者の経過と検査後の患者の様子、そしてヤマカワのADLについて、最新の情報を共有した。他の看護師の受け持ちからは、人工呼吸器装着患者の呼吸状態や昨晩の夜勤帯に不穏のあった患者の睡眠状況や別の手術後の患者の情報、排尿があればその都度尿量を測らなければならない患者や痰の分泌が多く吸引を頻回に行わなければ窒息のリスクが高い患者などの情報が共有された。

 その後は2時間毎に見回りと自分で寝返りの打てない患者の体位変換やオムツ交換を行う。その中で看護師は2時間ずつ交代で仮眠休憩を取る。日付が変わってからの点滴更新や処置などが無かったひかりは、0時から2時までの休憩になった。夜勤に入ってからの記録がほとんど終わっていないひかりは、0時までの間に急いで残った業務を進めていく。

 「橋本先輩、休憩中に何かやっておくことありますか?」一年後輩の中山から声がかかったのは0時10分を回った時だった。やばい、もうこんな時間、貴重な睡眠時間が無くなってしまう。そう思いながらひかりは自分のスケジュールを確認する。

「んーっと、特には無いけど、巡視の時にヤマカワさんが一人で動いたりトイレに行ったりしてないかだけ注意して貰っても良い?まだ立つ時ふらつくみたいだから」そういってひかりはいつもの習慣で、自分が休憩後にしなければならないことを箇条書きにまとめてから休憩室に向かった。

 正直、0時から2時の休憩ではやはり張り詰めた気持ちを緩めるのが難しく、眠れることの方が少ない。看護師の中では休憩時間に寝るのを諦めて気分転換に動画をみたり、恋人と連絡をとったりするスタッフもいる。それでもひかりはスマートフォンのタイマーをセットしてすぐに電気を消す。そして目を閉じてゆっくり呼吸をすることに集中する。少しでも身体を休めなければ、朝方まで集中力が持たずミスに繋がってしまう。ひかりは今まで夜勤があと少しで終わるという朝のタイミングに薬の配り間違いや点滴の投与忘れなどのインシデントを起こしたことがあった。自分の体調管理で患者の安全が脅かされるようなことはあってはならない、となるべく休憩時間は休息をしっかりと取るように意識している。

 遠くでナースコールが鳴る音や、点滴のポンプのアラームなどが聞こえてくるが、今はリラックスすることだけに意識を向ける。ゆっくり息を吸って全てを吐き出す。休憩用のソファベッドの硬さを肩と腰に感じながら、全身の力を抜いていく。

 うとうとしていたのか、アラームの電子音で意識がはっと湧き上がる。少しは休めたみたいだ。1時間を知らせるアラームを止めて現在の時刻AM1:30の表示を確認し、布団を片付ける。まだ起きるモードに切り替わっていない身体を、水筒に入れた温かいお茶で優しく起こす。一息ついたら次の休憩者の布団を用意し、自分の髪の毛や身なりを整える。中には休憩中にメイクを落として洗顔するスタッフもいるが、1秒でも多く休みたいひかりは顔の皮脂を拭き取って日焼け予防のパウダーを叩くくらいだ。髪の毛をきれいにまとめられると仕事のスイッチが入る気がする。今から気持ちをリセットさせて夜勤の後半戦に挑まなければ。

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