第7話

 午後4時半から始業の夜勤で、ひかりが病棟にあがるのは3時過ぎだ。夜勤は看護師4人のうち3人のメンバーが病院全体約50名の患者の受け持ちを分担する。そして残り1人がリーダーとなりメンバー業務のフォローや業務の采配、緊急入院の受け入れを行う。神経質なひかりは、なるべく患者の情報を正確に把握してスケジュールを立てたいため、しばしば後輩よりも早く出勤することがあった。

 ひかりの担当はヤマカワを含めて16人だった。16人分のカルテから患者の状態を確認しながら内服や点滴、血糖測定などの処置やその内容、目的などを拾っていく。手術後や入院後間もない患者は特に、夜間にせん妄を起こしセクハラや暴力、離院などしていないかも大切な情報だ。

 ひかりはヤマカワのカルテを開いた。自分が入院をとった患者のその日の夜の様子を確認するのは、いつも少し緊張する。大事な情報を見落としていたり、伝達ミスを起こしていないかなど、心配し出すとキリが無い。昨晩のヤマカワは夕食を3分の1程度とってトイレは食後に誘導された際、排尿があった。夜は念のため離床センサーを設置されていたが、使用することなく静かに眠っていたようだ。

 ヤマカワの担当看護師は、ホンダ達のことを含め入院時から色々把握出来ているひかりが抜擢された。これから退院までの間、ヤマカワにどのような看護を行っていくのかをひかりが責任を持って他のスタッフに示し、ヤマカワやホンダ達患者家族と医療スタッフとの間を取り持つ役割も担うことになる。ひかりはそのことを意識しながら入念にカルテを確認していった。

 日勤からの引き継ぎが終わると、さっそく夕食が栄養科からワゴンに乗って運ばれてくる。夜勤メンバーがそれぞれ配膳の介助が必要な患者のもとに、食事を運んでいく。念のため日勤でヤマカワを担当した看護師にお昼の様子を確認した。

「あーヤマカワさんね、ごめん私も良く分からなくて。お昼も配膳してコール対応した後に戻るとおかずがちょっとだけ減ってて。食べるところは見れなかったの。何を言っても反応しないし、拒否みたいなのは無いんだけど、なかなか関わりが難しい人ね。」おそらく現時点で点滴や処置もなく、ナースコールを押したり危険行為をすることの無いヤマカワの対応は、術後や終末期などのもっと重症度の高い患者や麻痺や認知機能低下で転倒リスクが高い患者の対応に比べると、優先順位が下になってしまうのは当然だろう。

 ひかりがヤマカワに食事を運ぶ順番を最後にしたのは、担当看護師としてヤマカワの食事の状況をゆっくり確認したかったからだ。ヤマカワのいる奥の広い個室に食事を持っていくと、面会時間が終わるホンダが出ていくところだった。

「こんばんは、夜勤に代わりました。ヤマカワさん今日はどうでしたか?」ひかりは初対面の時よりも少し親しさを込めてホンダに声をかけた。

「どうも、特にこれといって変わらなさそうです。夜勤ですか、どうぞよろしくお願い致します。」ホンダの態度は変わらず一定の固さを保っていた。軽く会釈しながらエレベーターに向かうホンダを見送り、ひかりはヤマカワの病室に入った。

「ヤマカワさん、夕食をお持ちしました。夜勤担当の橋本です。」なるべく柔らかい印象の声と表情を意識しながらヤマカワのベッドに近づいていく。オーバーテーブルにヤマカワの夕食を乗せ、テーブルごとベッドにセッティングする。ヤマカワの視線は天井に向けられたままだった。

 ひかりは声をかけながらベッドのリクライニングを操作し、ヤマカワの膝を上げて上半身を起こしていく。念のため血圧を測るが、特に身体を起こして値が大きく下がることも無かった。

「ヤマカワさん、今日の夕食はビーフシチューですよ。美味しそうですね。」そう声をかけながら料理を覆っているフタを一つ一つ外していく。個包装のドレッシングを開けてサラダにかけ、どうぞと声をかけるがヤマカワに動きはない。5分程経ってもヤマカワに反応が無いため、ひかりは食事介助を試みることにした。

「ヤマカワさん、身体を起こしてしんどくないですか?良ければ少しお食事の手伝いをさせて頂きますね。」ヤマカワの意識や顔色に変わりが無いのを確認したひかりは、スプーンにシチューを少量取りヤマカワの唇に近づける。

「ビーフシチューです、ひと口食べてみませんか?」と声をかける。認知機能が低下して食事をどうやって行えば良いか分からない人も、ここまで誘導すると食べられることが多い。しかしヤマカワの口が開くことは無かった。

 ひかりはここまでの展開は予想していた。何故なら入院時にホンダから聞いた通りだったからだ。そこで、やはりホンダが言ったように料理を置いて離れてみることにした。ただもちろん完全に放置する訳ではなく、少し離れたところでヤマカワが食べるのを見守れるようにする。もし、ヤマカワの嚥下や咀嚼が不十分で窒息するようなことがあっては大変だからだ。

「ヤマカワさん、それではお食事を置いておきますので、ゆっくり食べてくださいね。」そういってひかりはスプーンを置き、部屋の外へと出ていった。そしてドアの隙間からヤマカワが食べる姿を見守ることにした。幸いなことにヤマカワはひかりに気付いている様子は無く、ただ動かずに今度は天井と並行に視線を向けていた。どこをみているのかはひかりには分からなかった。ただヤマカワの纏う空気が余りにも静かで重く感じるため、時間を気にせずにはいられなかった。何故ならそろそろ食事を食べ終えた患者達が夕食後薬を催促するナースコールを押し始める頃だからだ。もちろん、食後の薬が遅くなるのは良くないし、食事の量によって薬の対応が変わる患者もいるため早めに下膳と配薬を周るに越した事は無い。そうこう考えているうちに早速ナースコールが鳴った、ひかりが担当している男性患者だった。いつも食事を終えるのが一番早く、薬を待たされることを嫌う1人でもあった。そしてどうやらナースコールを鳴らしているのは他にも2人いるらしい、食後はトイレ誘導のラッシュだ。高齢者や麻痺のある患者の多い病棟では、一人でトイレに行くことが出来る患者の方が少ない。

 ヤマカワの食事の見守りにずっと張り付いている訳にはいかないことは、最初から分かっていた。看護師による食事介助が必要な患者であれば、他のメンバーに相談して代わりにコール対応をして貰うのだが、ヤマカワはそうではない。ひかりは一旦この場を離れてコール対応をしながらちょくちょくヤマカワの部屋を除く方法をとることにした。

 担当患者の夕食を下膳し、薬を配っていく。何人かはその間に尿意を訴えトイレ介助を行う。ひかりはヤマカワの部屋の近くに来る度に中を覗いたが、ひかりが部屋を出る前から変わった様子は無かった。

 ナースコール対応が落ち着き、ようやくヤマカワの部屋に戻ったのは部屋から出て40分も経ってからだった。ヤマカワは変わらず床と並行に、突き当たりの壁に視線を向けたままだった。

「遅くなってすみません、食事をお下げしますね。」検査データに問題はなく、既往歴の不明なヤマカワに今の段階で処方されている薬は無い。歯磨きの用意を持って、それをオーバーテーブルに置くのと引き換えに、ひかりはヤマカワの食事を下げた。おそらく食事がだめなら歯磨きも厳しいだろうと半分諦めながら、ダメもとで促してみる。

「歯磨きの用意、置いておくのでお願いしますね。また片付けに来ます。」

そして部屋を出たひかりは下膳用のワゴンにヤマカワの残飯を運ぶ。今日の献立も美味しそうだったのに、捨てるの勿体ないなあと名残惜しむようにビーフシチューに目をやる。その時にふと気がついた、ビーフシチューの肉が無くなっていることに。スプーンをかき回した様子はなく、余りにも自然に肉だけ消えていたため今まで気が付かなかった。他の料理も確認するがサラダには一切手をつけた様子は無く、お箸の先は全く汚れていなかった。しかしもしかしたら、白米は少し減っているかもしれない。スプーンはひかりが介助した時についたシチューの汚れと変化があるかは正直分からなかった。ただ、ヤマカワは肉と米を選んで食べたのは間違いないとひかりは思った。

 ヤマカワの部屋に戻ると歯磨き用のコップに入れた水は無くなり、ガーグルベースンに口をゆすいだ後の茶色がかった水が入っていた。ひかりは思わずマスクの下でにんまりしながら言った。

「ヤマカワさん、お肉お好きなんですね。」

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