第5話
「先輩、保清の準備やっときました。」中川の声かけにひかりは視線をカルテから時計にずらす。
「うそ、もうこんな時間。ありがとう」看護計画や観察項目、患者情報のまとめなどを行なっているうちにあっという間に時間が経過していた。
「それじゃあ保清一緒にお願い。ヤマカワさん、暴力とかは今のところ無さそうなんだけど、何かの刺激で急に動いたりすることもありそうな人なの。あとちょっとアウトローな感じの人で、もし暴れたりとかがあればすぐナースコールで応援呼ぶようにしよう。」なるべく小さな声でひかりは中川にヤマカワのことを伝えた。
中川と2人でヤマカワの部屋に行くとホンダは腕を組んでヤマカワを見つめていた。ああ、そうだった、とひかりはホンダの付き添いのことを思い出した。
「すみません、今から清潔ケアをさせて頂きます。着替えたり身体を拭いたりするので一度部屋から出て頂けますか?」またもや硬い笑顔でひかりはホンダにそう伝える。今日は顔の筋肉をいつも以上に使っている気がする。
「ああ、分かりました。」ホンダは抑揚の無い声でそう言ってすぐドアへ向かったが、「部屋の外にいます、もしヤマカワの様子が変わればすぐに知らせて下さい。」と出る直前にひかり達に声をかけた。カガワの姿はもう無かったのでおそらく今日は帰ったのだろう。
「それではヤマカワさん、いまからお身体をきれいにして服を着替えますね。」そういってひかりは橋本と一緒にヤマカワのシャツのボタンを一つずつ外していく。
あ、と最初に声を出したのは中川だった。シャツのボタンを開けると鮮やかな緑が目に飛び込んできた。それは緑の鱗で肩や腕まで広がっているようだった。刺青のある患者をみたことはひかりも何回かあった。しかし大体が文字を腕か背中に入れているシンプルなものが多く、どちらかというと洋風というか、海賊っぽいイメージのものがひかりの経験では多かった。ヤマカワのような鮮やかな色彩の刺青を直接みるのは初めてだった。
「わあ、きれい。」失礼にならないように口をつぐんでいたひかりも思わず声に出してしまったのは、ヤマカワの背中をみた時だった。緑の鱗を纏い、黄色く鋭い角と爪を持った龍の上には、白い服を着た女性が手を合わせて立っている。一面の肌色を想像していたそこに描かれた場面は、なんとも神秘的で神々しいかった。
「観音様ですか?すごくきれいですね。」ひかりはヤマカワにそう声をかけるが案の定返答は無かった。それでも思わず触れたくなるような鮮やかな緑と白のコントラストにうっとりとし、それでも仕事に取り組まなければと名残り惜しむようにヤマカワの背中にタオルをかけた。
ヤマカワの保清は滞りなく進んだ。身体を起こすのも少し肩を支えれば自力で起き上がり、服を着る動きも軽く誘導すれば自分で袖に腕を通すことができた。龍の刺青に見惚れながらも、ひかりは手際よくヤマカワの身体を拭いて行った。そこには殴られた跡や傷のような物もなかった。床ずれのような物も全くなくやはり自分で寝返りくらいの動きは出来ているようだった。
「それでは最後にお下をきれいにしますね。」そう言って中川はベッドに横になった状態のヤマカワのズボンと下着を下ろした。ひかりは洗浄のために石鹸を泡立ててパンツタイプの使い捨て下着を用意していた。用意が終わると中川の動きが止まっているのに気がついた。
「これって、、」中川の視線の先にある物が分かった。見るとヤマカワの陰茎に2〜3ミリほどの瘤が亀頭の下を一周するように並んでいた。それはひかりが初めて目にするもので、ひかりもそれをどう扱って良いのか分からず手が止まってしまった。
「腫瘤?いやでも規則正しく入ってる感じだし。熱や傷、赤みもないし。」中川としばらくの間じっとその瘤を見つめる。うーん、どうしようと眉間に力を込めながら、ひかりはそれが何かの炎症による腫れでないことを確かめる。「ヤマカワさん、ここに痛みは無いですか?」
ヤマカワは天井を見たまま何の反応も示さない。
自分でシャワーやウォシュレットを使えない患者には毎日陰部洗浄を実施しなければ、不快感に繋がるだけでなく、排泄物の刺激で皮膚が荒れたり感染に繋がる可能性もある。ヤマカワの陰部に病的なものを感じなかったひかりは、やはりこのまま洗浄を行ってヤマカワが痛がるようであればすぐに中止しようと考えた。
中川とひかりは、いわゆる腫れ物に触るような手つきで慎重に陰部を洗浄していった。そしてひかりは、ヤマカワの陰茎を一周する瘤の中に形の違うものがあることに気がついた。それは他の物より少し大きく、いびつな形をしていた。「ヤマカワさん、ここは痛くは無いですか?」ひかりはそう声をかけながら手袋をつけた指で軽くそこに触れた。
すると次の瞬間、ヤマカワは顔を上げ目を見開き真っ直ぐにひかりを見た。突然のことにひかりはびくっと肩に力が入り、手が止まった。ヤマカワは何も言わず鋭い目つきをひかりにむけている。3秒も経っただろうか、ヤマカワの目からはすぐに力が消えていき、再び頭を枕に下ろした。そして固く目を閉じたヤマカワは何を言っても反応しなくなってしまった。
ひかりはヤマカワの思いがけない反応に思わず恐怖で思考が止まっていた。あの強い目に睨まれた瞬間、心臓が潰されるような圧を感じたのだった。そして今は全力疾走した後のように激しい鼓動が胸の中で響いており、息づかいも荒くなっているのをマスクの下で感じていた。
「橋本さん、大丈夫ですか?」中川の声にひかりははっと我にかえった。首筋に一筋の冷たい雫を感じながらケアがどこまで進んでいたかを思い出す。
「すいません、ヤマカワさん。お下を拭いて、下着を履きますね。」自分の声が震えているのに気がつき、後輩の前なのだからしっかりせねばと再び手際よくヤマカワの下半身に服を着せてゆく。
ヤマカワはそれ以来、先ほどのような反応を見せることは無かった。ヤマカワにとって、あの亀頭の下を一周する瘤に触れられることに対しての抵抗がとても大きいことに間違いは無いだろう。もちろんそれはひかりにとって当然のこととして受け止められた。陰部を触られることへの羞恥心も当然なのだが、おそらくあの瘤にはかなりデリケートな理由があるのだろう。そこに考えが行き届かず安直に触れてしまった自分を、ひかりは恥ずかしく思った。
自分の関わり方について反省しながらひかりは中川と保清物品の片付けを行った。汚物室に洗浄用の物品をもって入った時、中川がおもむろに口を開いた。
「俺、ビーズ入れてる人、初めて見ました。」
え?とひかりが思わず聞き返すと中川は気まずそうに視線を洗浄機にむけたまま話した。
「あの、陰部の、瘤みたいになってるやつです。ビーズを入れてるんだと思います。」
ひかりはまだ理解が追いついていなかった。陰茎にビーズ?そんな物を入れてどうするのか?その疑問がそのまま表情に出ていたのだろう、中川が苦しそうに続けた。
「その、女性を悦ばせるためのやつです。昔、地元の先輩の知り合いが入れたって聞いたことあって。俺も実際に見たのは初めてですけど。」
ひかりはそこまで聞いてやっと自分のしたことがどれほど的外れでデリカシーにかける行為であったのか理解した。顔が急激に熱を帯び、どんな表情をしたら良いか分からなくなった。そんなひかりを見て中川は申し訳なさそうに付け足した。
「なかなかいないですよね。だって絶対に痛いですもん。それにビーズを入れても、本人は気持ちよくなる訳じゃないみたいですし。」
そう話すうちに、中川もこの話題をどう終わらせたら良いか分からなくなっているようだった。
「俺だったらびびって出来ないですけど、ヤマカワさんはきっとそれだけ好きな人がいたんですかね。」
無理矢理ではあるが、そう言ってこの話題を終わらせた中川の気遣いにひかりは感謝した。そして保清を手伝って貰った礼を言い、後の片付けは自分がやるといって洗浄した物品を倉庫に運んだ。
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