第4話

 入院時に必要な説明を済まし、書類へのサインは一緒に説明を聞いたホンダが行った。診察を終えた山本医師がひかりに声をかけた。

「今回の入院さん、ものすごくややこしいね。」少し神経質そうに力の入った眉が眼鏡の上からのぞく。「診察しても特に反射とかは問題ないし、身体じゃなくて心の問題かもしれないけれど、出来ることは全部やってほしいって訴えてるからなあ、点滴のほうも一応検討するね。」山本医師ははりつめた空気と物腰の柔らかさを持ち合わせ、スタッフの相談にこころよく乗ってくれることで評判だった。山本先生が主治医なら色々相談しやすい、良かった、とひかりは少し安心できた。

 山本医師は脳神経内科の指導医で、今回の点滴治療に効果があれば神経に何かしら炎症を起こしている神経疾患の可能性も出てくるということになる。いずれにしても「力が入らない」症状のあるものの中で1つずつ可能性を消していって消去法で残った1番可能性の高い疾患が診断されることになるのは、神経疾患では珍しくない。しかし点滴加療にも副作用があり、それらのリスクを十分に理解した上で患者に同意があれば施行するのが前提なのだが、今回この治療を希望しているのはホンダのほうらしい。ホンダというよりは、ホンダに指示を出している上司といったところなのだろう。

 脳神経内科の医師達で話し合いをした上でヤマカワの点滴加療が週明けから開始されることが決まった。ひかりはそのこともふまえてカンファレンスでヤマカワの看護計画をメンバーに共有することにした。

「本日入院のヤマカワ氏、54歳男性です。主訴は四肢の筋力低下で1ヶ月程前に自宅で倒れているのを職場の同僚が発見し救急搬送されましたが特に問題は見つからず、一度自宅退院になった後も症状改善認めず当院紹介となり精査目的のため入院です。発語が無く意思疎通も困難なため自覚症状も不明、意識レベルの評価はおおよそですがJCSで3〜10です。ADLは全介助で移動は車椅子使用、尿意の訴えはありませんが入院前も失禁はなく、さっきトイレ誘導で排泄があったようです。人前での排泄に抵抗があるからか、キーパーソンも排泄動作を確認できず、私もトイレの前で待機している間に一人で排泄を終えられていたので確実に排泄があったかは不明です。筋力低下で転倒リスク高いため全介助としてしばらくは生活動作を援助していく必要があります。食事介助にも拒否的で、目の前に置いてあるものを少量ずつ自己摂取するとのことでした。」そこまで言い終えるまでに、内容を聞いているメンバーからはふーん、へえー、とヤマカワに興味が湧いたような反応と情報を書き取るペンの音が聞こえた。「身寄りがなくキーパーソンは倒れているのを発見した同僚の人で、最初の救急搬送後の自宅での介護もこの方がやっていたそうです。社会サービスの利用はしておらず、トイレや食事の情報から実は動けるのでは?という思いがある様子です。患者さん本人はかなり体格がいいので、夜間不穏になった時など看護師での対応が難しいのではとキーパーソンの方も気にされており、週に一回ずつ2人の同僚の方が交代で付き添いを希望されています。」そこでもへえーという声が何人かから聞こえた。なかなかくせのある患者だということがチームメンバーに伝わっていることに、ひかりは少し安心した。ナースコールの対応をしているスタッフが詰所から出たり戻ったりしていた。

「治療方針としては、主治医は検査結果からは身体的な問題が今のところ見つかっておらず精神的な問題の可能性が高いと予想しています。しかしキーパーソンの強い希望で出来ることは何でもして欲しいと言われており、点滴加療の効果も試してみるかもしれないとのことでした。」そこでえーっ、そーなんだと少し驚くような反応が何人かからみられた。その時点でナースコールの対応や検査出しのために半分以上のスタッフがカンファレンスを抜けてしまっていたのだが、参加しているスタッフの反応はすべてひかりの予想通りだった。

 点滴加療は副作用がある上に、効果がない可能性もある。それでもやってほしいというのは、よほど強い思い入れがあるとひかりは感じていた。同じように希望する患者、家族も今までに何人かいたが、副作用に耐えきれずに治療を中断するケースもあった。

 「看護師としては実際にどれだけ動けるのか、意識レベルや筋力レベル、嚥下機能などを評価するとともに、点滴治療の効果や副作用の有無などヤマカワ氏の症状変化を観察していきます。退院後の支援は治療の効果や診断結果を踏まえて検討していきます。」

 ひかりは伝達事項を漏れなく伝えることができたか不安だったが、未だに鳴り止り続けるナースコールの対応に追われてカンファレンスに残っているスタッフは自分とリーダーだけになってしまっていた。

「それでいいと思うわよ。また何か分かったらその都度山本先生やスタッフと共有していきましょう。それから不穏など何かあれば必ず2人以上で対応して、自分の身を守ることも忘れないでね。」リーダー看護師が優しく声をかけるや否や、PHSに連絡が入りカンファレンスはそこで終了となった。

 活発な意見交換とはならなかったが、とりあえずチームメンバーへの共有は終わった。ひかりはカンファレンスが終わったことで少しほっとしていた。午後からはヤマカワの清潔ケアを行う予定だ。ヤマカワが服を脱いだり身体の向きを変えるのが難しい場合や、拒否が強く暴れてしまうことも考えて男性看護師の中川と一緒にケアを行うことにした。 

 中川はひかりの1つ後輩にあたり、病棟で唯一の男性看護師だ。少し寡黙なところがあるが、身長は175cmで筋肉も蓄えており、いかにも運動部出身といった印象の外見をしている。そのため、暴言暴力のある患者の対応にしばしば助っ人として呼ばれることがあった。そして中川が対応すると、態度が一変して大人しくなる患者も少なくなかった。

 無事にケアが終われば良いのだが、とひかりは少し不安だった。入院患者で自力でトイレやお風呂に行くことが困難な人は、入院時に看護師が皮膚の観察も含めて保清を行わなければならなかった。しかしそういったケアに対して抵抗の強い人や意識がまだはっきりしていない人が、思わず看護師に手をあげてしまうこともある。服を脱いで、身体を拭いて、着替えて、陰部を洗うところまでをヤマカワは拒否なくさせて貰えるだろうか?

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