第3話

「付き添いねえ、まあ確かにあの体格の人が暴れたらひとたまりもないわねえ。」

ひかりはホンダの要望について、早速師長に相談した。師長もひかりと同様に眉間に皺を寄せながらあらゆる可能性について考えているようだった。

「そうね、付き添いすること自体は可能だとしても、さすがに24時間365日という訳にはいかないわね。2人が毎日付き添ってるのを見て他の家族も同じように付き添いたいと希望する可能性もあるし、そうなればスタッフが対応に追われてしまう。ヤマカワさんは3ヶ月の間全く動かなかったとなると、入院後も動かない可能性の方が高いんじゃないかしら。常時の付き添いは患者やスタッフのストレスに繋がったりケアや処置に支障をきたす可能性もあるし。」師長は思慮深い表情でひかりと一緒にヤマカワのカルテを見つめた。「うーん、日中の面会可能な時間内は好きなだけ居てもらってもいいけれど、清潔ケアや処置の時はプライバシーに配慮して付き添いの方には部屋の外に居て頂く。夜間の付き添いは、そうね、ホンダさんとカガワさんとで週に一回ずつ、許可することにしましょう。」

 師長の提案にリーダー看護師も同意した。患者家族の要望は、1人を許可すると他の人も許可しなければならなくなる。その時に的確に対応するため、ひとつの決め事にも必ず根拠を明らかにしてチームで共有する必要がある。ホンダとカガワの、週に一回ずつの夜間付き添いで何か問題があれば、おそらく決め事も新たに調整が必要になるだろう。ひかりはとりあえず現時点での面会ルールが決まって一安心し、ホンダとカガワにそれを伝えた。

「分かりました。それでは私は今晩付き添って、これから毎週月曜日の夜に付き添いをさせて頂きたいです。カガワは金曜日の夜に付き添うことにします。」

ホンダは礼儀正しく頭を下げた。一方カガワは一言も喋らない姿勢を貫いていた。視線を合わさず所作だけホンダを真似て軽く会釈する様子はどこか反抗期の少年に通じるような印象をひかりは感じた。

そしてヤマカワはどこでもない自分の鼻から15センチほど先の空間をひたすら見つめているようだった。

「ヤマカワさん、この後主治医の診察がありますがお手洗いは大丈夫ですか?」ひかりは視線を決して合わさないヤマカワの眼球を覗き込むようにきいた。ヤマカワは瞬きをしたかと思うと視線が少し別の角度に変わったように見えた。しかしそれ以上の反応は見られなかった。

 「ヤマカワはトイレにほとんど行かないんです。1日に1回行くかどうか、実際に我々が介助している際はトイレを介助することは有りませんでした。」

それを聞いてひかりは耳を疑った。

「どうゆうことですか?正常に水分を摂取していれば1日に4〜5回はトイレに行くものですが。お風呂や食事はどうしていたのですか?」排尿が少ないとなると、脱水か残尿の可能性がある、どちらにせよ血液データなどで問題が出るはずだ。しかしそのような情報は一切なかった、これはどういうことだろう?

「食事は目の前に置いておくと2〜3口たべます。食事は手を使わず顔を直接食べ物に近づけてかぶりつく感じです、おそらく。水は一度溢してしまいストローをさすようにすると1日にコップ1杯ほど飲んでいると思います。私達もそれだけではさすがに足りないと思い食べさせようとするのですが、口元に食べ物を持っていっても決して口にしないのです。」ホンダは申し訳無さそうな表情で少しうつむいた。

「私達はヤマカワが何かを食べるところや飲むところ、トイレをするところを直接観たことが無いのです。」苦しそうに言うホンダに対しいやいや、そんなことがあるだろうか、とひかりは納得できない表情を消せずにいた。正直全く信じられなかった。トイレをしないと熱が出るなど何かしら身体に問題が起こるはずなのだが、それがないということは自分でしているということなのか?でも誰もそれを見ていない。だが、食事も置いておけば自分である程度食べるとホンダが言っていたことを考えると、やはりヤマカワはある程度動ける可能性が高い。尿の正常や排便状況などは当然ホンダやカガワにも分からず、カルテに入力する個人データの欄はほとんどが「不明であり観察が必要」と入力されることになった。

 ひかりは念のため、診察の前にヤマカワをトイレに誘導することにした。車椅子ごとヤマカワをトイレに運び手すりを持って立つよう声をかける。しかしヤマカワはまったく動かない、おそらく視界にトイレは映り込んでいるはずなのだがトイレに誘導されていることを理解しているのかすら分からない。ひかりは諦めずそのまま5分ほど様子をみることにした。そのうちにやはり目の前に自分が立った状態で排泄するのは威圧感もあるし気がひけるかもしれない、と思えてきた。ヤマカワの羞恥心に配慮しひかりはトイレのドアの外にでて、もしヤマカワに動きがあればすぐに対応できるようにした。

じっと耳を澄ませながらひかりはドアを隔てたトイレの外で待っていた。排泄の介助でこのような対応をすることは良くある。自分は排泄に介助はいらない、と拒否のある患者はドアの外で見守りながら、もし倒れそうになったらすぐに支えに行けるようにするといった感じだ。ヤマカワはまだ50代だし麻痺も無いから、もしかしたら1人で立ち上がれるのかもしれない。それでもおそらく筋力の低下でバランスが取れなくなりやすいだろうから、すぐに支えなければならないだろう。大柄のヤマカワがバランスを崩して倒れてしまってはひかりが必死に支えてもおそらく立て直すことは出来ず共倒れになってしまうだろう、そうなる前にヤマカワが動いたらすぐにトイレの中に入って支えるようにしよう。そう思っていると中からトイレの水が流れる音がした。はっと思いドアから覗くとヤマカワが立った状態から車椅子に座るところだった。 

 しまった、ヤマカワが動いたことに気が付かなかった。あれほど耳を済ませるようにしていたのに、どうして気が付かなかったのだろう。ひかりは焦りながらトイレの中に入りヤマカワが車椅子に座るのを見守った。

「ヤマカワさん、立つのはしんどく無いですか?座ってした方が安全だと思うのですが。」

 車椅子用の個室トイレに響くひかりの声かけに返答は得られなかった。

思わずため息が出る、ヤマカワのことを理解するにはまだまだ苦労しそうだ。うーん、とりかりはヤマカワを病室に誘導しながら考えた。自分がトイレの外に出てからおそらくまだ3分も経っていない、となるとかなり短時間で排泄を済ませたことになる。水分をあまりとっていないことを考えるとおそらく排尿事態も少ないだろう、そして立って排泄をしたとなると少なくとも短時間は立位を保てる可能性が高い、やはりヤマカワは実際はかなり身体機能が保たれているのではないか?そしてトイレを流すボタンを押す事もできるとなると腕をあげる筋力もある程度保たれているかもしれない。いや、そもそも立ってボタンを押しただけで、排尿はできていない可能性もある。予想外のヤマカワ行動に、ひかりの頭の中で色んな可能性が駆け巡った。

 いよいよどうすれば良いか分からなくなった。ヤマカワは恐らくある程度できることがあるのだが、何がどれだけできるのか見せてくれといって見せてくれるわけではない。トイレに関しても今回はたまたま立つことが出来たが次はバランスを崩して転倒してしまうかもしれない。それほど情報が曖昧で不確かな患者を相手にすることはひかりにとって初めてだった。

 もちろん全てのことに介助が必要な人と同じようにケアをすれば、ヤマカワの衣食住や清潔は保てるだろう。しかしそれをすればヤマカワが今出来るていることもしなくなってしまうかも知れない。そうなると残っている筋肉もどんどん減って、自分の口から食事を取ることもできずに胃に直接管で栄養を送ることになるかもしれない。まだ50代なのに一生オムツを履いて生きていかないといけなくなるかもしれない。

 自分の思考がネガティブになっていくのに気がついたひかりは、もう一度冷静になり看護プランを立てることにした。やはりカンファレンスでメンバー達に相談しよう。

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