第2話

 ヤマカワ タロウが乗ったエレベーターが開いた時、ナースステーションにいたスタッフの多くは瞬時にその異質な空気を感じとった。二人のスーツ姿の男の真ん中に一人の中年男性が車椅子に乗って床を見つめている。スーツの男は二人とも40歳手前くらいで、一人はグレーのスーツに黄色いシャツ、もう一人は黒いスーツにシンプルな白いシャツを着ていた。そのスーツの男達からはよくある付き添いの人間から感じる心配や親しみなどは一切感じることがなく、いやいや保護者をしているような冷たい責任感とのような、まるで罪人でも連れてきたかのような圧迫感すらあった。ひかりは、自分の興味を態度に出してしまわないよう、なるべく落ち着いた口調で挨拶しようと努力した。

 「ヤマカワさんですね。本日担当致します看護師の橋本です、よろしくお願いします。お部屋に案内しますね。」やや力が入り声が上ずってしまったが、普段通りの挨拶でひかりはヤマカワ達を部屋へ誘導した。

 部屋の中の案内やナースコールの使い方、荷物の整理を手伝う間もヤマカワは一言も発さないばかりか、視線が合うこともなかった。ひかりは不安になった、この男は大丈夫なのだろうか?看護師にとって言葉を話せない患者をみることは少なくはない。脳出血や低酸素などで意識障害のある人、気管切開や人工呼吸器など気道を確保するために発声ができなくなっている人などを見ることは今までに何度もあった。しかしヤマカワの場合はそうじゃないのだ。外来でCTやMRIの検査をして脳卒中などの病変は無かったと記録にあった。その他の血液検査やレントゲンなど基本的な検査結果からも身体的に何か問題を抱えているようなデータは今のところ無いのだ。ヤマカワが声の出し方や話方が分からなくなったなどの何らかの原因があって沈黙しているのか、それとも自らの意思で声を出さないのか、それも分からない。そしてもし後者なら、看護師としてこれから自分に一体なにができるのだろうか?

 とにかく、入院となると必要な情報を出来る限り集めて患者のことを把握する必要がある。ひかりは申し訳無さそうな口調でヤマカワのことについての質問をさせて欲しいと3人に伝えた。

 「見てのとおり、ヤマカワは一言も話さないんです。私に分かる範囲でお伝えできることは言いますね。」黒いスーツの男が丁寧な言葉遣いでひかりにそう言った。その男の仕草にどこか品と色気のようなものを感じたひかりはますます緊張してしまった。今になって自分の髪が乱れていないか、思わず指先で確認してしまう。

 「ありがとうございます。それではまず、ヤマカワ タロウさんのアレルギーや既往歴を確認したいのですが、アルコールや食べ物、薬などのアレルギーや花粉症などが無いかご存知ですか?」本人が全く話せないとなると情報収集は長くなりそうだと少し焦りを感じながらひかりは入院処理をはじめた。

 「お酒はそれなりに飲んでいたと思います。タバコもおそらく。アレルギーはちょっと分からないですね。」黒いスーツの男に対してもう緊張を悟られまいと、ひかりは視線を合わせずにそうですか、わかりましたと言いながら淡々とパソコンの画面に情報を入力していく。本来なら1日にどんなお酒をどのくらい飲むのか、タバコは何歳に吸い始めて1日に何本吸っているのか、具体的な情報が欲しいのだが、無理もない。家族ならまだしも、他人の情報など皆その程度しか分からないものだ。

「連絡先はどなたのを登録すれば良いですか?」これも最も重要な情報のひとつだ、患者が急変を起こした時の連絡や治療においての同意が必要な時に、患者のかわりに説明を受けて同意を貰うことが出来る人間を決めて置かなければならない。

「私で結構です。ホンダといいます。ホンダ カツノリです。今回のヤマカワの入院で必要な連絡は私にお願いします。」黒いスーツの男がそういった。

「それではホンダ様に連絡させて頂きますが、もし繋がらなかった時のために他の方の連絡先も伺っておいた方がよろしいですか?」これも良くあることだ、誰にも仕事や移動中などの用事で電話に出られないことがある。そういう時に限って急ぎの連絡が必要になったりするのだ。

「それならこいつの番号もお願いします。カガワ リョウスケです。私に何かあればこいつに対応してもらいます。二人とも出張などの大きな仕事は当分無いはずなので、基本的には連絡がつくはずです。」そう言ってホンダは黄色いシャツを着たカガワの連絡先をひかりに伝えた。

「あの、ヤマカワさんの身内の方はどなたも連絡出来ないのですか?」ひかりは恐る恐る聞いた。やはり身内に連絡が着くならそれに越したことは無いと思ったからだ。

「残念ながらヤマカワに連絡の着く身内はおりません」ホンダはまるで釘を挿すようにそう言い切ったので、ひかりはそれ以上ヤマカワの肉親について聞くことは出来なくなった。

「それでは入院までの経緯について確認なんですが、手足の力が入らなくなったのはいつ頃ですか?それから話せなくなってしまったのもいつからか教えて下さい。」これはひかりが個人的に一番気になっていた情報だったが、この質問にたいしホンダは少しの間沈黙し考え込んでいた。

「そうですね。もともとは手足も不自由なく動き、会話も問題なくできる人間でした。最後にその状態で会ったのが半年ほど前です。ヤマカワはずっとひとりで生活していたのでいつからどのように症状が出たのかは分かりませんが、3ヶ月前にヤマカワを訪ねると部屋の中で倒れていたんです。その時には既に今と変わらない状態で、ひとりで立ち上がることや話すことも出来なくなっていました。その時はすぐに救急車を呼んだのですが、異常は見つからず恐らく精神的なものだろうと言われました。何も喋らず食べ物も口にしていなかったようなので一週間くらい点滴をしながら検査を受けたのですが、運ばれた病院の規模はそれほど大きくなく、専門医もいないため検査に限界がありました。そしてこれ以上ここで検査を続けても意味がないと医師に退院をすすめられました。家でゆっくり休養すれば良くなるかも知れないと言われ、心療内科の外来に通いながら私とカガワと交代でヤマカワの身の回りの世話をしていました。しかしその後もこの状態が続き一向に良くならないので上司のつてでこちらの神経内科を紹介して貰ったんです。」

 結局ヤマカワの情報で分かったことは、おおよその年齢と原因不明の症状があることだけだった。そしてこのホンダとカガワは、約一ヶ月もの間交代でこの自力で何も出来ないヤマカワさんの介護をしていたという事になる。

「あの、お二人はヤマカワさんとはどういったご関係なのでしょうか?」ひかりは恐る恐る聞いた。これも必要な情報なのだが、デリケートな部分でもあるため、関係性が分かりにくく敢えて聞かなければならない時はいつも緊張してしまう。ひかりは今まで娘さんのような奥さん、兄弟のような恋人、敵対する肉親、戸籍上は他人の家族など、人間にはさまざまな関係性がある事をこの仕事で学んできた。二人のヤマカワに対する威圧的な態度からは感じ取れ無かったが、このヤマカワにここまで手厚く身の回りの面倒を見るとなると、よほど関係が密であったのだろうとひかりは考えた。

「ヤマカワとは、仕事上の上司と部下であり、同僚ともいえるような関係です。我々は組織に属する人間は家族の一員として考えています。上司からの指示でもありますが、ヤマカワの世話をするのは我々の使命の一つなんです。」それが誇り高い仕事であり、嫌々している訳では無いと弁解するように熱をこめてホンダは言ったのをひかりは感じた。

 「それから、ひとつ要望があるのですが」ホンダは眉間に皺を寄せながらひかりに言った。

「ヤマカワの入院中、私とカガワと交替で毎日付き添いをさせて頂きたいのです。可能な範囲で構いません。ヤマカワの入院中の様子を把握しておきたいのです。」

 え、ひかりはそれを聞いて驚きを隠せなかった。今日までこの人達は毎日ヤマカワの介護をして、やっと入院が決まってそれをしなくて良くなったのだ。もし自分が彼らだったら、後は病院に任せてたまに面会に来るくらいで、今日は帰りに二人で介護疲れを労うために打ち上げも兼ねて飲みに行っても良いくらいだ。

 「そんな、毎日付き添いをしなくても、検査や診察があれば電話連絡でも医師から病状を説明することができますよ?付き添いは重症の方や認知症など状態が不安定な方が安心できるよう、一晩家族さんにそばで様子を見てもらうことがありますが、ヤマカワさんのように検査や診察がメインの患者さんに毎日付き添いをする必要は無いかと思うのですが。」

ひかりは自分の眉毛がハの字になるのを感じながら恐る恐るホンダに思ったことを伝えた。

「それでは駄目なんです。検査や診察の結果はもちろんですが、日々のヤマカワの様子を我々は見張る必要があるのです。24時間とはいいません、病院の都合に従いますので、どうか付き添いの許可を頂きたいのです。」ホンダはひかりの頼りない視線に対して断固とした強い眼差しでそう答えた。

 これは困ったな、とひかりは思わずホンダから目を逸らした。毎日の面会ならまだしも、付き添いとなるとどうなのだろう?この病院には付き添いをする家族が泊まれる部屋というものもあるが、それは本当にいつ亡くなるか分からないような患者を家族が最期まで見守れるために用意されたものだ。もしこの二人が毎日使うとなると、そういった人達が使えなくなってしまう。患者の病室に家族用の布団などを用意して見守って頂くこともあるが、おそらくこの二人が要求しているのは同じ部屋で付き添うことだから、このパターンなら他患者の迷惑にはならないかも知れない。 

 いずれにしても、師長に報告と相談をしなければならない。どの程度なら許可出来るのかはひかりでは判断出来ないからだ。

「付き添いの件、上司と相談してみます。しかしどうしてヤマカワさんを見張る必要があるのでしょうか?やはり理由が無いと付き添いの相談もなかなか…」ひかりはまた眉毛がハの字になっていくのを感じながら気まずくならないように口角をあげて話した。その結果なんとも情け無い表情になってしまったが、やはり理由を聞かずに師長に報告する訳には行かない。

「そうですよね、すみません。これは私達の希望的観測でもあるのですが、ヤマカワは今のところ身体的な問題は見つかっていません。なのでもしかしたら、その気になればまた動けるのでは無いかという考えを捨てきれないのです。もともとどこも不自由なく、というか誰よりも丈夫な身体の持ち主だったヤマカワが、もし我々がいない隙に逃げたり暴れたりすると、かなり手こずることになると思います。」ホンダは先ほどと同じように強い口調でそう言った。

 たしかに。ヤマカワはこの3ヶ月の間ろくに食事や運動もとれていないはずだ。それなのに体格はまだがっしりした印象を残しているということは、もともとかなり筋肉を帯びた身体だったのだろう。おそらくヤマカワの職業柄、せん妄などを起こして暴れるようなことがあれば手術後の患者や高齢者と同じような対応では歯が立たないかも知れない。女性ばかりの看護師ではいざという時の対応は難しいだろう、とひかりは想像した。

「なるほど、分かりました。一度上司に相談しますね。」ひかりはそう言ってヤマカワの部屋から退室した。

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