沈黙の龍

あきら

第1話

 枕元の軽快なリズムが覚醒を促す。スマートフォンに手を伸ばし、ひかりはアラームを止めた。もう6時かあ、昨日何時に寝たんだっけ?まだ目は開ききらないままで眠たさがのしかかる身体を少しずつ起こす。隣でカズヤがまだ寝息を立てている。今日は日勤なのに、どうして昨日の私はこの男を泊めてしまったのだろう、と犠牲になった睡眠時間のことを考えながらゆっくりと立ち上がる。今日は土曜日だから、土日休みのカズヤが夜に転がりこんで来たのだ。週末はよく仕事終わりに同僚数人で集まり、終電ぎりぎりまで飲むカズヤ。夜中の0時過ぎに家へ来たいと送ってきていたメッセージに、水を飲みながら既読をつける。

 酔っ払うといつもこうなるのが困ったところだ。おかげで浮気の心配は無いのだが、私は日勤前日の夜はしっかりと寝たいのに。はあ、とため息をつきながら髪の毛をまとめる。髪を濡らさないようさっとシャワーを浴びる。カズヤが家に来たのは確か午前1時前だった、もう既に自分は寝るところだったから、カズヤがシャワーを浴びている間にベッドに入っていた。だんだんうとうととしてきた頃にカズヤに抱き寄せられて睡眠が妨害されたのを思い出した。神経質なひかりは、ちょっとしたことですぐに目を覚ましてしまう。

 一方でカズヤは些細なことは気にとめない寛大で朗らかな性格の持ち主であり、いつでも思うままに惜しみなく愛情を注ぐ男だった。カズヤの忖度なく溢れる愛情に、ひかりは抗えずただ身を任せていた。カズヤが身体に触れた痕が残っていないのを浴室の鏡で確認する。思わぬ所に痕が残り、コンシーラーで隠したことが今までに何度かある。仕事中は髪をまとめなければならないため、髪の毛で隠すことは出来ない。おそらく職場で気付いた人は今までに何人かいたと思うが、敢えて指摘してくる人はいない。今日は大丈夫そうだ、とひかりはシャワーのお湯を止めて身体にボディークリームを塗る。

 身体がだるい、今すぐにでももう一度寝たい、と思いながら顔に冷水をかける。寝起きに早く動くことが出来ないひかりはゆっくりと顔を保湿していく。マスクをつけるため、化粧は日焼け止めと眉毛を整えるだけだ。もし夜に予定が入った時のために、小さな化粧ポーチをいつもカバンに入れている。

 髪を整え終えて大体の準備ができた。最後にもう一度水をのんで寝室の方に目をやった。カズヤは変わらず寝息を立てている。その平和な表情に思わずくすっと笑ってしまう。自分はそういう所に弱いのだ、とひかりはある程度自覚していた。いつも何かマイナスな事を考えながらピリピリしているひかりにとって、ゆっくりと息をすることを教えてくれるカズヤがとても大事な存在だった。

 幸せな恋愛や睡眠への未練について考える時間は終わりだ。今日の日勤メンバーは誰だったかな、ドアを閉めて駅へ向かう途中から仕事の事を考えずにはいられない。

 「おはようございます。」白衣に着替えたひかりは、まだ気怠さが残ったトーンで挨拶しながらナースステーションに入る。ホワイトボードに書かれた自分の今日1日の担当を確認すると、担当病室の数字の横に入院の係がついていた。

 入院かあ、ややこしい人で無ければいいな。今日の入院患者はどんな人だろう?

 ひかりは看護師として働き出して3年目になる。配属されている病棟では神経難病の医師が有名で、全国各地から医師の診察を求めて患者が入院してくる。

 まだ意識の端々に残った眠気もいっしょに取り除くように、入念な手洗いを済ませたひかりは、ホワイトボードに割り当てられた自分の今日の担当患者を確認した。

 ヤマカワ タロウ?脳神経内科の予定入院患者かあ、うちで入院した記録は無いなあ。52歳か、若いから認知症の心配や介助の必要はないかもしれない。症状は手足の力の入りにくさかあ、この人も神経難病の疑いで来てるのかな。そんなことを考えながら今日入院してくる予定のヤマカワの情報を外来診察の記録からとっていた。記録の中で気になる情報があった。—本人は一切質問に答えることなく視線もあわない、付き人が全て答えるため自覚症状については不明。—

 ん?どういうこと?本人は喋れないの??ひかりは記録を読むうちにヤマカワが複雑な患者であることを感じた。喋れなくて自覚症状が不明ってことは、筆談とかも無理ってこと?意思疎通はどうしたらいいのかしら?言葉は分かる人なのかしら?頭の中がはてなでいっぱいになったが、とりあえず入院の受け入れまでに他の患者の検温や点滴を終えられるようスケジュールを組んだ。

 「橋本さんが今日入院をとるヤマカワさんなんだけど、S個室の部屋を希望してるみたいなの。」朝の朝礼でひかりは師長からそう言われて驚いた。

 S個室は一泊5万円するこの病院で一番広くて高い部屋だ。なかなか希望で入る患者がいないため、スペースの無駄遣いとまで陰で言われていた。他のベッドが全て埋まってしまったり最期の看取りのため親族が集まる時など、一時的にもともと患者が希望するベッドと同じ値段で使用することがあった。しかしひかりの記憶ではこの五万円の部屋を希望して使用する患者は去年入院した院長の親戚が最後だ。

「どうやら訳ありな感じみたいよ。私も詳しくは知らないんだけど、先代の院長の知り合いらしくて今回どうしてもうちに入院させて欲しいってことみたいよ。どうも一般の人ではないみたいなんだけど、うちもあの部屋が埋まるのは経営的にも有難いし、何か問題があったらすぐ退院してもらうって話でまとまったみたい。だから何かあったらすぐに報告してちょうだい。」師長の話ぶりから、今まで入院してきたちょっとアウトローな雰囲気の患者達とはどうやら次元が違うようだとひかりは察した。

 ますますヤマカワがどんな患者なのか気になってきたひかりは、時計を気にしながら患者の検温を周り始めた。ヤマカワの入院は10時の予定で、今日の受け持ち患者に大きな検査や処置は無さそうだ。定時で帰れるように早めに記録を進めて、入院の処理もささっと終わらせてしまいたい。

 9時半をまわる頃には他の4人の受け持ち患者の検温をすませたひかりは、入院患者の部屋の準備を行うことにした。S個室はナースステーションから一番離れた場所にある角部屋で、値段も広さも他の個室の約4倍ある。

 部屋の鍵を開けて電気をつけたひかりは、部屋の中にゴミが落ちていないかやリモコン類など備品が揃っているかなどを確認した。この部屋を勉強会などに使った記憶もなく、最後に使用してからかなり時間が経過していたが、部屋の中は問題なく清潔だった。他の部屋のリモコンが故障した時などに一時的に使っていない部屋の物を使用することもあるのだが、それらの備品もちゃんと揃っていた。ひかりは外来診察のカルテをみながら患者が酸素を使用していないことや吸引の準備も必要ないことをもう一度確認した。

 それにしても不思議なのは、手足の力が入らなくなったこと以外何ひとつ分からないことだ。アレルギーも、喫煙歴、飲酒歴も不明となっている。だいたいこれらの重要な情報は外来診察の時に問診で確認されていることが多い。とりあえずできる準備は終わった、あとはヤマカワが入院してくるのを待つだけだと一息ついたタイミングで、医療事務の女性からPHSに連絡があった。

「今日入院のヤマカワさん、お連れ様と一緒に来られましたので対応お願いします。」



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