十五章
白い石床にめり込んでいるのではないかと思うほど激しく長靴を打ちつける足音に、酩酊でふわふわとした頭をもたげる。心地よく揺れる視界に庭木の緑と鮮烈に対比する色が現れ、
「おかえり」
「私が骨を折っているときに真っ昼間から
九泉主はしどけなく身をひねる。はだけた衣もそのままに、傍らに
「
「
「
片膝を立てて頭を乗せ、斜めに見上げてきた。腕を組む。
「別にそうは言ってない。九泉ではこれがふつうなら
「それはそれで突き放されていて寂しい」
「こちらも泉人にとって許しがたい習わしなどいくらでもある。お互い様だろ」
泉主は頬を掻く。
「
「それは今やっても変わらない。
――――あれから、何年経ったのか。数を
「こちらにお座り。そんなところでは
「言ってろ。地べたに座ったところで私の威光が霞むとでも?」
ふふ、と笑い含み泉主は背後から腕を絡めてきた。
「おい」
「許してくれ。……女たちに、酔った」
囁き、出
「それで、何をそんなに怒っている?てっきり今までで見たこともないほど上機嫌で帰ってくると思っていたのだが」
盛大に溜息を漏らした。
「今回こそは絶対に上手くいくと思ったのに、とんでもない――本当にありえない邪魔が入った。失敗だ。正直
「
お察しのとおりだ、と額に手を当てた。「あとほんの少し……ほんの僅差だった。信じられるか?黙って昇黎していやがった」
「一泉の王太子は妾腹だったかな。内密で?朝議にもかけず?」
「そうだ。正妃の
拳を打ちつけた姿に、ふむ、と頷いてようやく離れる。
「では不徳門を開く前に新たな
「
思い出せば再び抑えようのない怒りと悲しみが沸いてくる。「下すのにどれほど骨を折ったと……」
「なるほど。合法的な手順に即して徳門を閉めても、新たな泉主がいるかぎりは開く。均衡が乱れた時分にその天門内で力を使えば契りが
「落とさずにいられるか。お前は
「汝の娘たちがいるだろう?」
「自分が始めたことを他人に尻拭いさせたくはない。……しかし、私が一泉に関われるのももうそれほど時がない。だろう?」
そうだね、と寝転がって指を組む。「それに汝は次の族主をもう決めている」
「ああ。娘たちは皆優秀だが特に
泉主はくるりと双眸をまわして視線を宙に
記憶に誤りがなければ、一番初めに麗春花が叩扉、つまり昇黎して不徳門を開く試みをしたのは彼女が鉱脈を発見し領地に帰って間もなく、一年も経たない頃だった。
再会の挨拶もなしに、はたして本当に徳門を閉めなければ不徳門は開けられないのか、と問うてきた。こちらはおそらくとしか答えようがない。なにせ誰もそんなことはしたことがないのだから。しかし予想は出来たから一応は止めた。まあ、聞くわけもなく、そうして一泉の天門の均衡は崩れた。
これで明らかになったのは、天門の開閉には不文律の順序があるということ。外門を閉めずに内門に干渉すれば均衡は乱れ鍵が壊れる。せっかく開きかけた内門も再び閉じた。
「お前が許したのはひとえに一泉に
「寡人はきちんと警告したよ。おそらく成功はしない、と。だが、汝にたとえそうでも検証は必要だと駄々を捏ねられては否と言えなかったのだ」
「門の中で溺れ死にそうになるなんて思わないだろ。
過渡で失敗すれば九地子と結んだ見えない契約関係は無効になるが、泉外人の天啓者は生きて
「九重の門はいわば天を取り巻く壁の、二重の通用門。天帝と始祖水神の眠る核を守護する
「やれやれだ。だが天門にとって何が無理で何が許容できるのかもやっとなんとなくだが分かった。とにかく天意に反して故意に外門を閉じても神々は聖域を侵した
その理の一端である彼を見れば、そちらは謎の笑みを浮かべてただ見返してきた。
「やはり課題は
「だから楓氏を待っている?」
直截な問いに思わず目を逸らす。泉主は首を傾けた。「孳孳を使おうとはしないのだね」
「……あの子が真に楓氏であるのかも、私には判断できないことだ」
「おや、
「それでも、
言いながらも自分で分かっている。少なからず情が移っていることは。孳孳はたしかに
「優しいね、麗春花は。子どもは殺せない?もう二人も一泉主を失わせたのに」
「……仕方なかった。己の矛盾は分かっているつもりだ。非道を行っているのも承知している」
手を見ながら言った。先ほど怒りにまかせて打ちつけたところがうっすらと青痣になっている。
「だが私は私が生きているうちになんとか天を
いつ再び、水のないあの地獄がぶり返すかと思うとおぞましさに肌が粟立つ。脳裡に過去の光景が去来し俯いて心中を吐露したところで、ふいに白い指が触れてきた。
「……汝はいつまで経っても変わらないな。見目さえも。皺ひとつない」
「おおかた麅鴞が老いまで
「九泉の泉根はこれが当たり前なのだ。なんら面白いものでもないよ。…………さて、では天門のことは一旦中断か。あとは娘御に託すというわけだね。麗春花、本当に行くのか、八泉に」
「お前は構わないと言った」
「汝のすることを止められはしない。だがそれこそ博奕ではないか?」
案じる顔に鼻で笑う。
「賭事が嫌いなわけではない。ものが己自身ならなおさら燃える」
足台から立ち上がり、向かい合う。
「九泉主。私をどう思う?」
意図を測りかね、きょとんとして見守っていた泉主はやがて合点したのか黒い爪を噛んで微笑んだ。
「……傷ひとつない甘美な
「それは男としての意見か?」
「汝としてはどうか?」
逆に問われて
「そうは思えないくらい美しい。生娘のままの姿だ」
「だが残念ながら息子にはとんと縁がなかった。はたして私の
「麗春花。無理してないか。やはりやめると言っても問題はないよ」
「何が無理だ。これは二度とないかもしれない好機だ。いいか、女には女にしか出来ないことがある。ただ
そんな私は限りなく神に近い、と本気か冗談か、双眸を細め空虚に笑う。
「あとは向こうがうまく
「…………きっとすんなりとゆくだろう。汝の姿は目を逸らせない。男は皆、欲情して隙があれば群がってくる」
「ああ。だろうな」
まだ女とも呼べない頃からそういう視線には嫌というほど絡めとられてきた。
顔を上げる。目を合わせてくる彼も紛れもなく、男だが。
「……正直、私はお前と過ごすのが苦ではなかった。むしろ心地良かった。私を骨董品としか見ないお前は逆に気が抜けて変に肩肘張らずに話せたからな」
「それは嬉しい」
「――――ものの、憎くもある。決して九泉主としての立場を譲らず、長年私の辛苦を眺めて遊んでいるのは許さない。それがたとえお前の出来うるかぎりの情けだとしてもだ。
「観測し、管理し、調停を握る寡人は誰の味方にもなれない。それは分かっていたはず。理に甚大な影響を与えるほど天秤を傾けてはならない……けれど、もう行き過ぎなほど汝に肩入れしてしまった。もしかすれば天命を取り上げられる。そのくらいに過干渉に泉外人に味方してしまった寡人が今後どうなるかもわかったものではないよ。相応の報いを受けるならば汝も少しは溜飲が下がるだろう?」
「たわけ。罰を受けるに変わりないなら私に余すところなく全てを明かしても良いものを」
「今は時ではない」
息をついた。「遊んでいるわけではないのだよ麗春花。ただ寡人は九泉主としての自分からはどうあっても逃れることはできない。誰もが今の立場を
それでも行くのだね。そう言った寂しげな瞳を見返し、決意を
「万民の命がかかっているからこそだ。お前がどれほど均衡を図ろうと立ち回っても負けはしない。世界を
必ず覆す。この理不尽しかない天地を新しく生まれ変わらせる。生きとし生けるもの全てが命の水を永遠に受けられるその日まで、諦めはしない。
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