十五章



 白い石床にめり込んでいるのではないかと思うほど激しく長靴を打ちつける足音に、酩酊でふわふわとした頭をもたげる。心地よく揺れる視界に庭木の緑と鮮烈に対比する色が現れ、撑枕まくらにうつ伏せたまま顔をほころばせた。

「おかえり」

「私が骨を折っているときに真っ昼間から暢気のんきに乱交とはな。話がある。傾城けいせいどもを退さがらせろ」

 九泉主はしどけなく身をひねる。はだけた衣もそのままに、傍らにはべった女たちへ気怠げに手を振った。

寡人かじんの妹たちを遊女呼ばわりしないでくれるか」

同胤きょうだいどうしでよくやる」

けがらわしい、と?」

 片膝を立てて頭を乗せ、斜めに見上げてきた。腕を組む。

「別にそうは言ってない。九泉ではこれがふつうなら他所者よそものの私には何も言えない」

「それはそれで突き放されていて寂しい」

「こちらも泉人にとって許しがたい習わしなどいくらでもある。お互い様だろ」

 泉主は頬を掻く。

なれはそれほど聞き分けが良かったかな。髪に口付けただけで叩かれた頃が懐かしい」

「それは今やっても変わらない。こぶしを返してやる。だが、歳を食ったのは事実だ」


 ――――あれから、何年経ったのか。数をそらんじようとすればあられもない格好の白い男は長靠椅ながいすに寝そべって手招きしてきた。仕方なく下の足台に腰掛ける。


「こちらにお座り。そんなところではいぬのようではないか」

「言ってろ。地べたに座ったところで私の威光が霞むとでも?」

 ふふ、と笑い含み泉主は背後から腕を絡めてきた。

「おい」

「許してくれ。……女たちに、酔った」

 囁き、出った時と遜色ないつややかにうねる赤毛に鼻先を寄せる。次いで横顔を覗き込んだ。

「それで、何をそんなに怒っている?てっきり今までで見たこともないほど上機嫌で帰ってくると思っていたのだが」

 盛大に溜息を漏らした。

「今回こそは絶対に上手くいくと思ったのに、とんでもない――本当にありえない邪魔が入った。失敗だ。正直くびり殺してやりたい」

叩扉こうひが失敗した?どうしてまた。昇黎中になにかあったね?」

 お察しのとおりだ、と額に手を当てた。「あとほんの少し……ほんの僅差だった。信じられるか?黙って昇黎していやがった」

「一泉の王太子は妾腹だったかな。内密で?朝議にもかけず?」

「そうだ。正妃の葛斎かつさいに一切伝えず母親が落血らくけつの儀を。これでは一泉主いっせんしゅが死に損だ。あの子の苦労はなんだったのか、くそが」

 拳を打ちつけた姿に、ふむ、と頷いてようやく離れる。

「では不徳門を開く前に新たな降勅こうちょくがあったと。饕餮は?」

ちぎりが解かれた」

 思い出せば再び抑えようのない怒りと悲しみが沸いてくる。「下すのにどれほど骨を折ったと……」

「なるほど。合法的な手順に即して徳門を閉めても、新たな泉主がいるかぎりは開く。均衡が乱れた時分にその天門内で力を使えば契りがたれてしまうのか。有効なのは鍵が絶対に必要な状況のみというわけかな。麗春花ひなげし、それが分かっただけでも収穫ではある。気を落とさないで」

「落とさずにいられるか。お前は麅鴞ホウキョウがどれほど強大な妖か知らないからそんな脳天気なことが言えるんだ。しかも二匹目だったのだぞ、二匹目。私ももう若くはない。それに今では大巫おおかんなぎとして大会議に臨席する身だ。気ままに旅などできない。新たな麅鴞を手に入れるまでまた時がかかる」

「汝の娘たちがいるだろう?」

「自分が始めたことを他人に尻拭いさせたくはない。……しかし、私が一泉に関われるのももうそれほど時がない。だろう?」

 そうだね、と寝転がって指を組む。「それに汝は次の族主をもう決めている」

「ああ。娘たちは皆優秀だが特に何梅カバイ刹瑪シャマであり戦士にもなれるよう私が全てを教育した。あれは私に似て聡く筋が良い。天賦の引きの強さも持っている。おまけに父親が嫌いだ。『選定』に出せばおそらくかなり早く終えられるし、私の大望も必ず叶えてくれる」

 泉主はくるりと双眸をまわして視線を宙に彷徨さまよわせた。



 記憶に誤りがなければ、一番初めに麗春花が叩扉、つまり昇黎して不徳門を開く試みをしたのは彼女が鉱脈を発見し領地に帰って間もなく、一年も経たない頃だった。


 再会の挨拶もなしに、はたして本当に徳門を閉めなければ不徳門は開けられないのか、と問うてきた。こちらはおそらくとしか答えようがない。なにせ誰もそんなことはしたことがないのだから。しかし予想は出来たから一応は止めた。まあ、聞くわけもなく、そうして一泉の天門の均衡は崩れた。むくいとして彼女は初めて得た半双かたわれを失い、不徳門をこじ開けられそうになった一泉国の泉主は何もあずかり知らぬうちに突然謎の死を遂げた。これが最初の叩扉だ。


 これで明らかになったのは、天門の開閉には不文律の順序があるということ。外門を閉めずに内門に干渉すれば均衡は乱れ鍵が壊れる。せっかく開きかけた内門も再び閉じた。



「お前が許したのはひとえに一泉に継嗣あとつぎがいたからにほかならない。でなければ泉根を失う事態になり、一泉の水は腐った。そんなこと調停者のお前が見過ごすはずないからな」

「寡人はきちんと警告したよ。おそらく成功はしない、と。だが、汝にたとえそうでも検証は必要だと駄々を捏ねられては否と言えなかったのだ」

「門の中で溺れ死にそうになるなんて思わないだろ。半双あいぼうを失ってからがら帰ってきた」


 過渡で失敗すれば九地子と結んだ見えない契約関係は無効になるが、泉外人の天啓者は生きて現世うつしよに帰って来られる。これも初回の試みで新たに分かったことだった。


「九重の門はいわば天を取り巻く壁の、二重の通用門。天帝と始祖水神の眠る核を守護する闤闠かきねであり常には泉を浄化する命水が流れる天の水樋あまどい。無理に門を乱せば正統なる鍵は壊れるが正統でないほうはその資格を剥奪されても命までは失わない。……大いに興味深い。やはり泉主が死ぬのは血を受け継ぎ器そのものが泉と連結してきよめをつかさどる者だからだろうか」

「やれやれだ。だが天門にとって何が無理で何が許容できるのかもやっとなんとなくだが分かった。とにかく天意に反して故意に外門を閉じても神々は聖域を侵した冒瀆ぼうとくに対して忿怒ふんぬに駆られ目覚めたりはしない。と考えれば天式とは、やはり初めに定めた条理により機能している。私たちが物を食べれば消化して排出する仕組みを持つのと同じく、本人らの意思や感情に関わりなく編んだ摂理により動いている」

 その理の一端である彼を見れば、そちらは謎の笑みを浮かべてただ見返してきた。

「やはり課題は鎖定さていだ。外門を閉じねば話が始まらないというわけだ。悩ましい」

「だから楓氏を待っている?」

 直截な問いに思わず目を逸らす。泉主は首を傾けた。「孳孳を使おうとはしないのだね」

「……あの子が真に楓氏であるのかも、私には判断できないことだ」

「おや、うたぐり深い。寡人がさんざん試して証したのに?現にあれは今も汝が出遇った頃と変わりなく少年のままだ」

「それでも、雄常ゆうじょうから生まれるのをこの目で確認しないことには納得出来ない。それにたとえ閽神かどもりのかみといえど安易には用いられない。麅鴞……饕餮や他の九子と違ってたった一人しかいないのにさすがに大損しそうな博奕ばくちは打てない」

 言いながらも自分で分かっている。少なからず情が移っていることは。孳孳はたしかに只人ただびとではないのだろうが、人と限りなく近くほぼ同じ人なのだ。妖のように割りきって考えられない。

「優しいね、麗春花は。子どもは殺せない?もう二人も一泉主を失わせたのに」

「……仕方なかった。己の矛盾は分かっているつもりだ。非道を行っているのも承知している」


 手を見ながら言った。先ほど怒りにまかせて打ちつけたところがうっすらと


「だが私は私が生きているうちになんとか天をもたらしたい。もう残された時間が少ない。急がねばならない」

 いつ再び、水のないあの地獄がぶり返すかと思うとおぞましさに肌が粟立つ。脳裡に過去の光景が去来し俯いて心中を吐露したところで、ふいに白い指が触れてきた。

「……汝はいつまで経っても変わらないな。見目さえも。皺ひとつない」

「おおかた麅鴞が老いまでむさぼっていたのやもしれない。お前のほうこそ昔のままだ。不気味だな」

「九泉の泉根はこれが当たり前なのだ。なんら面白いものでもないよ。…………さて、では天門のことは一旦中断か。あとは娘御に託すというわけだね。麗春花、本当に行くのか、八泉に」

「お前は構わないと言った」

「汝のすることを止められはしない。だがそれこそ博奕ではないか?」

 案じる顔に鼻で笑う。

「賭事が嫌いなわけではない。ものが己自身ならなおさら燃える」


 足台から立ち上がり、向かい合う。躊躇ためらいなく自らの腰を締めている帯鉤おびかぎに手を掛けた。

「九泉主。私をどう思う?」

 大襟えりとめを全て外し、両肩から全て降ろす。抹胸むねあても解いて裸身を晒した。

 意図を測りかね、きょとんとして見守っていた泉主はやがて合点したのか黒い爪を噛んで微笑んだ。

「……傷ひとつない甘美な珠肌たまはだだ」

「それは男としての意見か?」

「汝としてはどうか?」

 逆に問われてわらった。「少なくとも私の伴侶つれあいは何年経ってもいたく執心している。聞いて驚け、あれから十二人も産んだ」

「そうは思えないくらい美しい。生娘のままの姿だ」

「だが残念ながら息子にはとんと縁がなかった。はたして私のはらで使い物になるだろうか」

 へその下を押さえて平然としている様子に泉主は眉を八の字にした。

「麗春花。無理してないか。やはりやめると言っても問題はないよ」

「何が無理だ。これは二度とないかもしれない好機だ。いいか、女には女にしか出来ないことがある。ただを撒き散らすだけのおまえたちとは違う。私は今ばかりは自分が女であることを誇るぞ。この私こそが生命を選別する特権を持ち、類稀たぐいまれなる血を持つ新たな人を産み出せる僥倖きかいに恵まれた」

 そんな私は限りなく神に近い、と本気か冗談か、双眸を細め空虚に笑う。

 たねは搾り取るだけで事足りる。そこには愛も慈しみも不要だ。奪ってきた者たちから今度はこちらが奪ってやるのだ。


「あとは向こうがうまくたぶらかされて穏便に事が済めばそれでいい」

「…………きっとすんなりとゆくだろう。汝の姿は目を逸らせない。男は皆、欲情して隙があれば群がってくる」

「ああ。だろうな」

 まだ女とも呼べない頃からそういう視線には嫌というほど絡めとられてきた。


 顔を上げる。目を合わせてくる彼も紛れもなく、男だが。

「……正直、私はお前と過ごすのが苦ではなかった。むしろ心地良かった。私を骨董品としか見ないお前は逆に気が抜けて変に肩肘張らずに話せたからな」

「それは嬉しい」

「――――ものの、憎くもある。決して九泉主としての立場を譲らず、長年私の辛苦を眺めて遊んでいるのは許さない。それがたとえお前の出来うるかぎりの情けだとしてもだ。降嫁こうかに同行するなどと突拍子もないことを言い出しても強く止めもせず、成り行きに任せるその驕慢きょうまんと余裕ぶって憫笑びんしょうするさまにはほとほと嫌気が差す」

「観測し、管理し、調停を握る寡人は誰の味方にもなれない。それは分かっていたはず。理に甚大な影響を与えるほど天秤を傾けてはならない……けれど、もう行き過ぎなほど汝に肩入れしてしまった。もしかすれば天命を取り上げられる。そのくらいに過干渉に泉外人に味方してしまった寡人が今後どうなるかもわかったものではないよ。相応の報いを受けるならば汝も少しは溜飲が下がるだろう?」

「たわけ。罰を受けるに変わりないなら私に余すところなく全てを明かしても良いものを」

「今は時ではない」

 息をついた。「遊んでいるわけではないのだよ麗春花。ただ寡人は九泉主としての自分からはどうあっても逃れることはできない。誰もが今の立場をてて汝のように飛び出していけるわけではない。他者の命がっているならなおのこと」

 それでも行くのだね。そう言った寂しげな瞳を見返し、決意をあらわに頷き返した。

「万民の命がかかっているからこそだ。お前がどれほど均衡を図ろうと立ち回っても負けはしない。世界をるのは私しかありえない」


 必ず覆す。この理不尽しかない天地を新しく生まれ変わらせる。生きとし生けるもの全てが命の水を永遠に受けられるその日まで、諦めはしない。




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