第七百五十夜『空から消えた遠い星-La Nascita di Venere-』

2024/9/30「夜」「橋の下」「嫌な時の流れ」ジャンルは「邪道ファンタジー」


 ある日、空から金星が消えた。

 金星が消えたと言っても天候や光の加減かげんで姿が見えなくなったとかではなく、文字通り綺麗きれいに消えてしまったのだ。


 この知らせには人々はひどおどろいたが、しかし大半の人々は報道を聞き終わると金星が消えた事など忘れてしまっていた。

 大半の人々と言うのは報道を読んだり聞いたりしている時こそ神妙に不安そうな顔をするが、その実報道が終わるとすぐに関心の無い事など忘れてしまう生物なのだから、当たり前。


 一部の人々は金星が消えたのは某国の兵器実験の結果だの、金星は消えてなどいないが政府が消えた様に演出しているだけだの、最初から金星なんて惑星は存在しておらず天文学者がつくろっていた欺瞞ぎまんが立ち消えただけだのと、好き勝手陰謀論いんぼうろんを唱え始めた。

 宇宙開発なんて膨大ぼうだいな資金をようする計画なのだが、陰謀論者の脳内では資金なんて物はどこからともなく勝手に無限に湧き出る物なのである。大変景気の良い話である。


 また一部の人は金星が観測かんそく出来なくなったのは人類にとっての損失だの、天文学や美術や人類文化史における冒涜的ぼうとくてきな挑戦だの、これは凶兆に間違まちがいないだのと、強い言い方ではあるが真っ当な形で心配した。

 何せ金星をモチーフにした存在は、星を観る文化圏ぶんかけんではおおむね強いエゴを持ったキャラクターとして出力されているし、そんな星が雲隠れしたとなると星の神話的には大変具合がよろしくない。

 最たるものはローマ神話の金星で、金星の神はかの有名なヴィーナスであり、神々の王子マルスの妻でもある。神話の時代のお妃さまが消えたとなれば、大きなスキャンダルだし、世が世なら歌い人が金星が火星に愛想あいそを尽かせて出て行ったと喧伝して廻るだろう。


 しかし、金星が消えても大したことは何も起きなかった。

 例えば木星が消えたとしたら、本来なら地球へ落ちる筈の隕石を受け止める地球より大きな惑星わくせいが消えた事で、地球は隕石による被害で穴と細菌だらけの星になると予想されるだろう。

 そうでなくとも、月が消えたりしたら地球の重力はおかしくなって現在の生物は暮らせなくなるだろうし、火星が消えたのならば太陽系全体の引力と斥力のバランスはり替わる。

 しかし、金星が消えても宇宙には特に何も起きなかったのである。

 これは金星が及ぼす影響えいきょうが少なく、惑星の中でもっとも消えても影響が無いものと目されているからである、正直この文章を書いている私も金星が消失したと仮定したさいの予想に関する資料が少なくて非常に苦心しているところである。


 その事を知っている人々は『きっと消えても影響が無い星だから、消してしまおう! って言って、誰かが実際に消しちまったんだろう』と、能天気なれ言を言う始末。

 しかし実際に金星が消えても何も影響が無いし、誰も困らない。

 これが月なら、お月見だの、月の土地の権利書けんりしょだのと、自然環境しぜんかんきょう以外の面でも困る人は大勢おおぜい居ただろうが、金星というのは天文学者や神話作家の様な人々以外からは関心があまり無い。


  * * *


 地球の空よりはるか上空、成層圏せいそうけんの更に向こう、黒い体をした大きなモノが、キラキラとかがやく眼で星を観ていた。

 大きなモノの黒い体は宇宙空間では保護色ほごしょくの役目をして透明に見え、その姿は間違いなく視界に映ってはいるものの、誰も気が付く人は居なかった。

 大きなモノは口角を上げて微笑ほほえむと、その大きな大きな指をある星に近づけて、そしておはじきでも弾く様に星を弾いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る