第七百二十八夜『ペットのやった事-Animal Trial-』

2024/09/02「空気」「絨毯」「最弱の才能」ジャンルは「ホラー」


「痛っ!」

 小型犬にみつかれた。

 それも小型犬にちょっかいをかけたとかではなく、通りすがりに吠えられて、噛まれたのだ。

 俺に噛みついた小型犬はすぐにあしからはなれたが、俺の脚にはクッキリと歯型がへこみ、と鮮血が垂れていた。

「おっと、すみません。ダメだぞートッポ?」

 オマケに飼い主の糞馬鹿野郎クソバカやろうは特に悪ぶるでもなく、と笑っていやがる。

 しかもこの糞馬鹿野郎はリードと首輪も付けていない放し飼いで小型犬の散歩をしており、俺は自分のはらわたがえたぎるのを感じた。

「ふざけんなテメエ! これは立派な傷害罪だぞ! 分かってんのか、この唐変木トウヘンボク! テメエみたいな義務ぎむも果たさず権利けんりを行使する社会のシラミみてえなゴミクズが居るから、俺の様な善良な市民が不条理をふっ被るハメになってんだよ! これを見ろこの傷口きずぐちを! 何針うケガか素人しろうとだから分からねーが、医療用いりょうようホッチキスでパチっと縫合ほうごうすればあとも残らず治る傷口では断じてえ! 医療費いりょうひ慰謝料いしゃりょうも払ってもらうからな!」

 俺がそう言って詰め寄るも、糞馬鹿飼い主は笑ったままで、事の重要性が理解したくないのか、理解するだけの脳味噌のうみそが存在しないのか、自分は絶対に悪くないとでも言うポーズでいやがる。

「いやですねえ、?」

 そう言うや否や、糞馬鹿飼い主は小型犬を抱きかかえ、そそくさと逃げ去ってしまった。

 俺は糞馬鹿飼い主を追おうとするも、やっこさんは人混ひとごみにまぎれる形で接触が不可能になってしまった。

 俺は人混みの中、糞馬鹿飼い主を追おうとしたが、負傷した足ではうまく歩けず、追う事が出来なかった。

畜生ちくしょう! 悪逆無道の犯罪者めが! 天がその罪を報いて、子々孫々から末代に至るまで、むごたらしく救いの無い不幸が訪れんことを!!」


  * * *


 一方その頃、小型犬の飼い主は叱責しっせきから逃れ、人混みを抜け、平穏を取り戻して小型犬を脇から下ろした。

「怖かったねトッポ、もう大丈夫だからね」

 小型犬の飼い主は身をかがめ、地に足を下ろしているトッポに目線を近づけていつくしむ様な口調くちょうで言った。

 その時の事だった。

 一瞬いっしゅん唸り声が聞こえたかと思うと次の瞬間、小型犬は突如現れた剣歯虎けんしこの口内にさらわれてしまっていた。

「わっ、わたしのトッポがァ―――ッ!」

 小型犬は突然現れた剣歯虎の口内に攫われたと上述したが、それは少々的を射ておらず、語弊ごへいのある表現だ。より具体的に言うと、小型犬は剣歯虎の口内で牙を脇腹わきばらに食い込ませる形で明確にみつかれており、苦悶くもん双眸そうぼうを剥き、絶叫するかの様な口の開き方をしているが、それでいて全くき声を挙げていなかった。

「あら、ごめんなさい。怖がらせてしまいましたね、でも大丈夫。うちの子、人はおそわない様にキッチリしつけてあるんですよ」

 背後から声がして、小型犬の飼い主が振り返ると、そこには和服をつややかな女性がリードを握って立っていた。

「わっ、私トッポが……私のトッポがあああぁぁぁッ!」

「あら、お菓子でも落としたのかと思ったら、トッポというのはペットの名前? ごめんなさいね、首輪とリードが無いから野犬かと思いました」

 小型犬の飼い主は突然の事態じたいに呼吸はまばら、脳も世の全ての理解を拒んでいる状態だったが、自分の飼い犬が息も絶え絶えな状態で剣歯虎に噛みつかれている事、そして目の前にはこの剣歯虎の飼い主が居る事がようやく理解出来た。

「お、お、おっ、お前―ッ! トッポは私のペット、私の人生なんだ! お前も曲がりなりにも飼い主だというならペットを失うという気持ちが理解出来ないのかッ! 見ろッ! トッポはもう息をしない、元気に駆け回ってボール遊びも出来ないし、好物のカリカリだって食えないだろう! あんたは他人の気持ちが、自分のペットが同じ目にったらどう思うッ!?」

 小型犬の飼い主はそう吠えたけったが、しかし剣歯虎の飼い主は全く悪びれない。

「理解出来ません、気持ちも分かりません、他人の事なんてどうも思いません。そもそもの話、リードも首輪もつけずに放し飼いにしていたアンタが悪いんじゃないですか?」

 剣歯虎の飼い主の発言は半ば正論、ともすれば詭弁きべん、されど一般論いっぱんろん、悪法もまた法であるのだから法を遵守じゅんしゅする者には法の保護下ほごかにあるのである。

 しかし小型犬の飼い主に、その言葉はトゲ以外の何でもない。

 小型犬の飼い主は目に涙を浮かべ、と小刻みに肩をらし、心にを憎悪にやし、眼前の女に対してありとあらゆる呪いの言葉を吐こうとした。

 しかし、小型犬の飼い主に出来たのはただただ震えるだけ。肺は空っぽで、目はチカチカするし、頭は混乱して何を言えばいいのか分からない。

 小型犬の飼い主は自分がひどく小さく、仇討ちをする甲斐性も無く、ひたすら惰弱だじゃくだと感じ、地面の方へと顔を向けて何も言えずにいた。

 その時だった。

 何か大きな黒い影がったかと思うと、剣歯虎は巨大な何かに組み伏せられ、牙を立てられ、そして痛みから来る叫び声を挙げて、小型犬を口から放した。

「トッポ!! ああ、かわいそうなトッポ……ごめんね、何も出来なかったよ……許してくれ……」

 小型犬の飼い主は脇腹に大きな穴が複数ふくすう開いた小型犬を抱き留め、さめざめと泣いた。しかし、事態は静寂を許してくれない。

「ああクリス! 大丈夫クリス!? ママがついてるからね!!」

 巨大な何かに組み伏せられ噛みつかれた剣歯虎に対し、飼い主は涙目になりながら懸命けんめいに叫んでいた。

「なんだ、街に虎が居ると思ったが、飼い虎だったのか。すまねえ、すまねえ」

 その場で発言をしたのは、軽薄けいはく雰囲気ふんいきの男。彼もまたリードを手にしており、ペットの散歩にでも来ている様子で、目の前で巨大な何かが剣歯虎を組み伏せている事実を、まるで陽が東から昇った様に意に介していない。

 いや、巨大な何かではない。そのは軽薄な男の手のリードの先端に続いており、それはよく見ると常識じょうしき外れに大きいものの、黒犬の様な形の頭部をしており、しかし肉体は枝分かれし、尾が三、後肢が六、首は一、あぎとは一つ、胃袋は三つ、故に咬合力こうごうりょくと食欲は三倍。巨大な肉体をした異形の黒犬の奇形、『逆ケルべロス』こそがの正体だった!

「何、このバケモノ……こんな猛獣もうじゅうをペットとして飼っているの? あんた、頭おかしい……」

「何だよその猛獣は! 見るからに人畜じんちくに有害そうじゃねえかッ! オメーには常識じょうしきってモンがねーのか、ええッ!? よくこれまで人間社会で生きてこれたな、このトンチキ野郎がッ!」

 小型犬の飼い主と剣歯虎の飼い主は各々自分のペースで軽薄な男を糾弾するが、彼はそんなのどこ吹く風。

「あー、聞こえんなー? まあアレだ、? 残念ながら、こういう問題は当事者間で解決しろって風潮ふうちょうだからな、悔しかったらおまわりさんに駆け込んだらどうだ? もっとも、おまわりさんもそんな暇じゃないから取り合わないだろうがな!」

 その時だった。甲高い銃声がひびき、逆ケルベロスの眉間みけんに穴が空き、大量たいりょうの鮮血が宙をい、逆ケルベロスはその巨体を地に落した。

「ああああああ!! 誰だ!? よくも俺のペットをちやがったな? ペットは財産なんだぞ! お前を器物損壊罪で訴えてやるからな!」

 軽薄な男はそう叫んだが、彼には誤算があった。

 彼の目の前には硝煙を吐く猟銃をたずさえた人物が一人居たが、銃器や刃物をかまえた人物は彼を包囲するように大量たいりょうに居た。

「ひっ捕まえろ! 抵抗する様なら指の一本や二本や片耳を切り落としても、暴れられて仕方なかったで通せる!」

「ひっ!」

 大勢おおぜいの武器を携えた人間に捕らえられ、軽薄な男はすっかり大人しくなり、小型犬の飼い主と剣歯虎の飼い主は我幸いとそそくさとどさくさ紛れて逃げ去った。

 軽薄な男は両手両足をしばられ、猿轡さるぐつわを噛まされ、最早一分の抵抗の色すら見られない。

 武器を携えた人達が軽薄な男を確保した後、スーツ姿の年配の男性が黒い車から降りる形で現れ、彼の前まで歩み寄って言った。

「よお、兄ちゃん。お前さん、元気のいい犬を飼っているそうだな? 俺の弟分から聞いてるぜ。どうだい、一つ俺んところでしようや」

 軽薄な男は眼前のスーツの男性に人違いだと弁明しようとしたが、彼は猿轡を噛まされているのだから弁明なんて一つも出来る訳が無い。

 尤も、仮に自己弁護じこべんごをするにしても、などと言ったとところで話が通用する相手ではないだろう。

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