第五百九十一夜『助けの手・裏-it's finger lookin' good-』

2024/03/01「月」「少女」「嫌なヒロイン」ジャンルは「悲恋」


 すっかり辺りは真っ暗で、月がよく見える夜の事だった。

 視線を感じた。どこか、すぐ近くでも遠くでもない場所から見られている。

 私はこれまで空気の様に生きてきた。勿論一切視線を浴びた事が無いなんて事は無いけれど、それは私の向こう側の誰かや何かを見ている物。だから、誰か他人の視線を感じるなんて事は生まれて初めてだった。

 。これが私の生まれた理由なのだと、今理解りかいした。

「どこ? どこにいるの? 私の運命の人!」

 視線を感じる方を探すと、向こうのマンションの窓から私を双眼鏡で見ている人が居た。

「居た! ねえ、見える? 今から会いに行くからね!」

 私はもう嬉しくなり、四本ある前肢を滅茶苦茶に振った。こんなに幸福感に包まれているのは初めて! これが食べちゃいたい程かわいいと言うものか!

 もう私は居ても立ってもいられなくなり、全速力で視線の主の方へと向かった。急に全速力で走るとがもつれて転ぶなんて事が有るが、私の後脚は自分のフルポテンシャルを発揮する様に動いた。


「この辺の建物かな? うん、きっとそう!」

 私はこれまで、何かに目が釘付けになった記憶は無かった。しかし私の眼は、視線のあった場所を立体的且つ正確に把握していた。これまで自分の視力の良さを実感した事は無かったけれど、意外な特技を会得した様で気分が良い。

「目なんて一つあれば視力そのものは事足りそうだけど、立体の把握をするのには一つじゃダメものね。目が八つあって初めて得した気分!」

 私は視線のした場所とおぼしきマンションに辿り着き、かべを登って建物の内側へと回った。相手は運命の人なのだ、べランドや窓から入るのはロマンティックかも知れないけど、今から会いに行くとハンドモーションで伝えたのだから、玄関から入らなければダメ!

 幸いクライミングは得意だし、糸を使ったワイヤーアクションは更に大得意。マンションの壁を登る事も、通路側へ糸を使って降りるのも全く苦に感じなかった。

「こんばんは! 開けてください、約束通り会いに来ました!」

 扉をノックし、インターホンを鳴らし、扉の取ってを引っ張った。しかし扉は開かない。

「まだ準備が出来てないのかな? 開けてください!」

 ひょっとしたらあの人は待ちくたびれて、疲れて眠ってしまったのかも知れない。私は彼を起こす様にインターホンを何度も押したり、扉を強くノックしたりした。

 しかし、彼は全然出て来てくれない。私がこんなにも何度も強くノックしているのに!

「おいお前、今何時なんじだと思ってる?」

 横から声がして、そちらに目線をやる。そこには引きまった肉体の男の人が居た。さっき私に視線をやった、私の運命の人ではない。

「あなた誰ですか? 私は今から運命の人に会うんです、邪魔しないで下さい」

 私は利きでノックと扉の取っ手を引っ張り続けつつ、反対のでインターホンを鳴らし続けながら言った。

 その時、私に話しかけて来た男は手に持った杖を振り上げるのが見えた。

「きゃっ!?」

 私は反射的に前肢で顔を庇った。右側第一前肢に激痛げきつうが走って、自分が本気で殴られた事が理解出来た。今や私の右側第一前肢は感覚が無く、力無くと下げる事しか出来ない。

「ひっ、た、助けて! 開けて! 助けて!!」

 私は恐怖に駆られ、扉を滅茶苦茶にノックした。何せ中に居るのは私の運命の人なのだ、私をこの恐怖から助け出す形で受け入れてくれる筈!

 しかし扉は開かない。中には運命の人が居る筈なのに、現実には私をおそ暴漢ぼうかんが居るだけだ。私はただ運命の人を食べたいだけだと言うのに!

 私の目(右側の後側眼)に再び、暴漢が杖を振り上げるのが見えた。私は再び反射的に目を閉じて前肢で頭部を庇う。

 不思議と痛みは無かった。しかし不思議な気分、さっき運命の人に気が付いた時よりもずっと身体がする。だけどとても立ってられず、どっちが上でどこが前だか分からない。目を開けている筈なのに暗いし、何だか色も変。何だか眠い、頭に空気が足りないのかな? 自然とあくびが出て、あくびが出てそれから……


 * * * 


「ね、ね『朝の蜘蛛は生かせ、夜の蜘蛛は殺せ』って言うじゃないか」

「うん? ああ、言うな」

 大学の構内こうないのカフェテリアに、一見痩躯そうくだが引き締まって筋肉質な男子生徒と、長い茶髪ちゃぱつが目に映えるスレンダーで、どこかサルの様な印象を覚える軽快な雰囲気の女学生とが居た。

「じゃあ明け方の蜘蛛ってのは、殺したらどうなるんだろうね?」

「あー、それは何と言うか、一つ思い当たる節があるんだが……」

 茶髪の女学生の質問に、筋肉質な男子生徒は応じて、続けた。

「これは俺の持論なんだが、運の良い蜘蛛とか無害だとか益虫と人に認定される蜘蛛は日中に出るんじゃないか? ほら、陽が落ちた後に毛むくじゃらで足の多いワチャワチャした生き物が居たら、思わずこうつぶしちまいそうだろう?」

 筋肉質な男子生徒は、拳で何かを潰す仕草をしつつ、そう説明した。

「ふーん、暗い中で蜘蛛を見たら潰す……それって蜘蛛が怖いとか気持ち悪いとか苦手な人が言い出したのかな? ゲンジョウもそう?」

「そうだよ」

 そう答える筋肉質な男子生徒の言葉には実感がこもっていた。

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