第五百九十夜『助けの手-hell for leather-』

2024/02/29「夜」「観覧車」「おかしな幼女」ジャンルは「ラブコメ」


 真夜中のマンションの一室にノックの音がひびく。その部屋の住人は両手で包丁を握り、部屋の隅でうずくまっていた。

(早くどっか行け! 早くどっか行け!)

 一見すると、ごく普通の悪質なストーカー被害の様に見える。しかしこの状況は少々常識じょうしきや想像を逸していた。

 部屋の住人は知っている。あの扉の外に居るのは人間ではなく、自分を狙って来た人間ではない何かだ。

 ノックの音がリズミカルに響き、施錠された扉を鳴らす音がして、呼び鈴が連打される。

「……ケテ……ケテ……」

(頼むから早くどこかへ行ってくれ!)

 彼がこんな目にった発端なのだが、時間はほんの少しだけさかのぼる。


「今日は雨か……」

 外は夜空に雲も無く、それでいてと雨が降っていた。狐の嫁入りと言う奴だ。

 彼にはちょっとした独特な趣味しゅみがあった。マンションの窓から夜遅くの街を双眼鏡で覗く事が、何とも言えずに好きなのだ。

「こんな事をしているだなんて、覗きをしている様で他人様ひとさまには言えないな」

 灯りがまばらな真夜中のビル群はなんとも言えず寂しさと美しさを両存させており、彼小雨が降っている今は猶更なおさらだった。

 暗闇くらやみの中、雨にれた自動販売機じどうはんばいきほのかに光っているのを観るのは快感だ。

 暗い中、まばらに灯りが点いている集合住宅を遠目に眺めるのはどことなく気分が良い。

 ほぼほぼ無尽の道路に、真っ暗闇にならない様に照らしている街灯や信号機を見ると心が暖かくなった。

 その時であった。

「ん?」

 双眼鏡で覗いた先に、小さな人影ひとかげの様な物がチラリと見えた。長いかみをしてエプロンドレスを着た子供の様に見えた。

「こんな時間に子供が一人で外に……?」

 迷子か何かなら、誰かが保護ほごする必要があるだろう。そう思って双眼鏡で人影を見た。

 それは人間の子供ではなかった。シルエットこそ長髪とエプロンドレスの子供の様に見えたが、その実、髪は四本の細長い節足、ドレスののふくらみの様に見えたのは蜘蛛クモの腹、胴体は蜘蛛の胸部、しかし頭部は人体のそれと似た様なバランスの大きさをしており、黒真珠の様な八つの眼球がこちらを見返していた。

(……見返していた?)

 その蜘蛛はこちらを見たと思うと、髪の様な頭頂部側の節足の内一本を振った。まるで双眼鏡で覗いているこちらを認識にんしきし、友好的な態度たいどを見せている様に見えた。彼には蜘蛛の表情は分からないが、蜘蛛は求愛や威嚇いかく等のコミュニケーションの際に脚を振り上げると言う事は知っていた。

 彼は人間大に見える蜘蛛がすぐ近所に居た事、人間大の蜘蛛がこちらを見返していた事、人間大の蜘蛛がこちらに向って手を振った事に呆然とし、その場で石像の様になってしまった。

(これは夢か? 夢だよな? 頼むから夢であってくれ!)

 そう祈りながら双眼鏡から目がはなせない彼だが、事態はむしろ悪化した。件のバケモノ蜘蛛だが、彼が手を振った事に気が付くと昆虫類や節足動物のワチャワチャとした動きでこちらの方へと走って来たのだ。

 もうこうなると、彼は恐慌きょうこう状態じょうたいにすっかり陥った。

「やばいやばいやばいやばいどうすればいい何だアレはどうしようやばいやばいやばい!」

 彼は家のカギと言う鍵をかけ、カーテンを閉め、そして何か武器になる物は無いかと思いを巡らせ、包丁を手に取った。

「そうだ、警察! いや、警備けいび会社がいしゃか?」

 しかし恐慌状態にある彼は、電話を手に取った時点でいくばくかの理性が戻って来た。

(巨大な蜘蛛がうちに向って来ていると言って、ガードマンや警察官は来てくれるのか? マトモに取り合わずに無視するかも知れないし、ともすれば薬物で幻覚を見ていると判じられるのでは?)

 彼は変なところで理性がはたらき、電話機でんわきを使わずにその場に置いた。


 そして、時間は現在へと至る。

「……ケテ……ケテヨ!」

 ノックの音は段々強くなり、戸やインターホンを滅茶苦茶めちゃくちゃに鳴らす音もスピードが増している。

(どこか行け、どこか行け、どこか行け!)

 部屋の住人はその場にちぢこまり、両手で頼りなさそうに包丁を握りしめ、目を強く閉じ、歯の根が合わずにガチガチと恐怖で音を立てていた。

(あのバケモノは俺を遠目に見て、喜色きしょくを浮かべていた……)

 先程、バケモノ蜘蛛が手を友好的に振った時、部屋の住人は何が何か分からずに呆然したが、今の彼には思い当たる節が一つあった。デパートの食堂で、ディスプレイに並んだ食品サンプルを見る童女にどことなく似ていた。どうしても欲しい、食べたいものが有るとねだる童女の仕草だ。

 つまり部屋の住人は、バケモノ蜘蛛にとって愛しいご馳走ちそうと言う事になるのだろう。少なくとも、彼にはそう感じられた。

 そして、今尚ノックの音は更に強くなって行く。ともすれば、扉を殴り開けられそうにすら感じられる。

 その時、一層大きな、しかしくぐもった大きな打撃音だげきおんがした。いよいよ扉がり破られたのか! そう観念かんねんし、しかし恐怖で目を開く事が出来ず、ますます目を強く閉ざした。

(俺はどうなる? 動かなければおそわれないか? 関係無くあのバケモノに喰われるのか?)

 部屋の住人は自分が生きたまま蜘蛛のバケモノに喰われる姿を想像し、恐怖の余り気を失ってしまいたいと願い、そしてそうなった。


 部屋の住人が意識を取り戻すと、外はすっかり明るくなっていた。

「あれは夢だったのか?」

 夢か現か現実か、何が何だか分からないながらも、部屋の住人は恐る恐るドアアイを覗くもそこには何も無く、加えて言うと死角に何かが潜んでいる様子も無い。

 部屋の住人は安心して、外に出て、そして違和感いわかんを覚えて振り返った。

「……!」

 そこにはまるで、金槌か何かで何度も殴打された様なあとが有った。さながら、無邪気な子供がオモチャを叩きこわした様な。

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