第五百三十夜『正義の見方-Public Enemy-』

2023/12/16「空気」「アルバム」「壊れた空気」ジャンルは「指定なし」


 凪いだ寒空の下、人気ひとけの無い歩道を歩いていると前方、風下の方から一人の男が歩いて来た。

 男はダッフルコートを身に着け、歩きタバコをしている。私と彼は別に知り合いなどではなく、それ故挨拶あいさつをするでもなく、ただ通り過ぎた。

 私はタバコが吸えない。吸えないし、そもそも嫌いな嗜好品しこうひんを吸ったり飲んだりするほど馬鹿馬鹿しい事はあるまい。逆に言えば、あの男はタバコを吸っている間は気分が晴れているのだろうと直感的に感じた。

 別に男に対して思う所は無かった。本来歩きタバコの法的根拠ほうてきこんきょとは傷害罪によるところで、即ち元々歩きタバコは他人を火傷させかねないから違反行為いはんこういなのだ。人込みでタバコを吸わなければ、誰かに指摘されて他人を火傷させる前にタバコの火を消せばそれは法的には無罪だと強弁出来る。受動喫煙防止じゅどうきつえんぼうしに関しても、相手がタバコの煙を吸わなければ同様に言えよう。

 そんな事はどうでもいい。今すれ違った男は目に余る様なマナー違反はしていないし、私も目くじらを立てていない。それだけの話だ。

 加えて言うと、私が来た道も人気が余り無く、私が彼をたしなめて歩きタバコを止めさせたとしても、少し歩いた先でまたタバコに火を付けるだろう。誰も居ないのに誰かを傷つける行為を禁じる法律を遵守じゅんしゅしろと誰が言うだろうか? いや、誰も居ないのだから、誰も注意する筈も無い。

 その様な他愛の無い事を考えつつ、私は目的地へと歩みを続けた。


「いらっしゃいませ、一名様ですか?」

 私が辿り着いたのは、カジュアルでオープンな雰囲気の大衆酒場だ。酒場と言っても食事や甘味も充実しているし、店内は薄暗うすぐらくなく暖色系だんしょくけいの照明がと店内を照らしていて、もっぱら酔っ払いではなくファミリーの利用客が入っていた。

 私がまず注文するのは好物のカプレーゼ。このスライスしたモッツァレラチーズと、扇状にカットしたトマト、そしてこれらの味を強調してボヤけさせない塩とオリーブオイルの組み合わせは最高で、コーヒーにもコーラにも紅茶にも合う。

 カプレーゼをコーヒーにもコーラにも紅茶にも合うと表現した事には、ちょっとした理由が有る。何せ私は酒の味が分からない、美味く感じない嗜好品を摂取せっしゅする意味など無いし、それ故カプレーゼと酒の組み合わせは自らはしない。

 別に酒の味が分からないだけなので、他人から勧められたら飲まない事も無いが、その場と人次第では、今日こんにちそんな事をしたら酒を勧めた側が周囲から白眼視で見られかねない。

 故に私はカプレーゼの他、コーヒーとペペロンチーノとプリンを注文した。この組み合わせが私にとって、この店での最高の一つだ。

 私が注文を済ませて席に座っていると、酒の入る曜日ようびと時刻だからだろう。酒場の中で景気の良い大声や笑い声が目立つようになってきた。

 私は酒は飲めないが、この雰囲気はむしろ好きだ。他人の談笑の音が聞こえる喫茶店や大衆酒場やファミリーレストランの類は、私にとってはいこうに最適の場だ。私は周囲かられる笑い声に聞き耳を立てながら、運ばれて来たコーヒーをすすってリラックスした。

 私にとってはこの空気の中で人々の談笑を聞く事、この瞬間しゅんかん瞬間が価値ある宝なのだ。

 中にはこの様な空気が嫌いな人も勿論いるだろう。しかしここは大衆酒場、元よりこの様な空気を味わうために来る場所であり、例えば酔っ払いがあばれたり、或いは子供連れに絡み酒を行なったり、未成年に酒を呑ませようとしない分には何も問題はない。

 この様な空気を嫌悪する人が居る事は全くおかしくはない。例えばムスリムでは、殆ど全ての宗派で外や人前での飲酒は禁止している。

 その中でも私が知る中で最もに落ちるのは、泥酔でいすいとは悪魔あくまの仕業で、泥酔した人間からは魂を摘出し易くなっていて、故に泥酔した人間は暴行や不道徳を行なうと言う伝承だ。

 そして逆にコーラン原理主義的には泥酔を禁止し、アルコールそのものを禁じていないし、そもそも天国には酒が無尽にあると言われている。つまり宗派にもよるが、ムスリムにとっては忌避きひすべきはアルコールと言うより酔っ払いであり、酔っ払いの引き起こす暴行だと言えよう。

 今この場にいさかいは無い。皆各々おのおのアルコールや酒の肴を楽しみ、和気藹々わきあいあいとしている。

 その時だった。酒場の入り口をいきおいよく開く音が聞こえたと思うと、外から赤いライダースーツと赤い騎乗用フェイスヘルメットを被った人物がエントリーして来た。その姿はさながら、全身よろいに身を包んだ騎士の様。

 赤い全身鎧の人物は、呆然する店員を尻目にズカズカと店内を歩き、すっかり酔いが回った一人の男の首根っこをつかみ、自らのふところから取り出した紙幣しへいをテーブルに叩きつけ、抗議こうぎをする酔いが回った男の言葉を無言で聞き流しながら彼を引きずって店の外へと出て行った。

 酔いが回った男と一緒になって呑んでいた人々は、互いに顔を見合わせていた。誰か何か通報する様な事があったのかとひどく疑問に思っている様子で、すっかり酔いは覚め、店内はすっかり談笑のムードでなくなっていた。

 あの赤い全身鎧の人物が酔いが回った男の身内なのか、誰かが通報した結果なのか、正義せいぎの味方気取りのお節介なのかは定かではない。ただ一つ分かるのは、大衆酒場の空気がすっかりしまった事だ。

 私は周囲の談笑がすっかり止んでしまった事を苦く思い、溜息を吐いた。

「本当に迷惑な行為をする奴が居たものだな……」

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