第四百七十二夜『この世界が生まれた理由-so five minutes ago-』

2023/10/14「林」「見返り」「残念な運命」ジャンルは「指定なし」


「ダメだ、全く書けん」

 ある作家が机の前でボヤいていた。その作家は学生時代からノートやキーボードにかじり付いてくらしており、筆の速さが自慢だった。しかし、書けない。

 アイディアはある、やる気もある、仕事環境だって悪くない、体力作りは日課のランニングのおかげでたっぷりだ。しかし、書けないものは書けないのだ。

「またですか、先生? また書けないとかトンチキな事をしないでくださいよ?」

 作家の同居人は、心底迷惑そうな口調で釘を刺した。これに対し、作家の男は普段ならば気分を害したような態度たいどを示すところなのだが、今日はちがった。

「そうだ、君は世界五分前仮説と言う思考実験じっけんを知っているか?」

「え? 何ですか、急に? 世界五分前ナントカってのはそんなに大切な話なんですか?」

 はとが豆鉄砲を食ったような作家の同居人に対し、作家の男は静かな様子で続けた。

「ああ、大いにある。この世界は五分前に、その時点での状態で始まったと言う思考実験だ」

 作家の同居人は、作家の男の言う突拍子の無い言葉に困惑の念を示した。

「何ですか、世界が五分前に始まったって……そもそも俺は生まれて五分どころじゃないですし、先生はもっと年上じゃないですか」

「君は他人の話を聞かないな! 世界は五分前、その状態で、始まった。これがこの思考実験のミソなんだ。つまり、年齢ねんれいも記憶も全ての動植物の状態も、五分前に全て作られたないし勝手に生じたと言う考え方だ。端的な説明としては、年輪がよく用いられるな。そこらの雑木林の切り株が数歳すうさいだと言う証拠はあるが、それは数歳の状態で五分前に出現した事になる」

 作家の男は同居人をバカにする様に、諭す様に説明した。

「つまり五分前に全てが、記憶とか年齢ねんれいを伴って一斉に世界に生じたって事ですか?」

「ああ、そうなる。サイエンスフィクションやホラー作品、特にコズミックホラーなんかで度々用いられる手法でもある。新しいルールの基に宇宙を創る電話ボックス……自分を一般人だと思い込んでいる、記憶を伴って生まれて来たクローン人間……全ては邪神が見ている邯鄲かんたんの夢だと主張する、精神に異常をきたしたカルト信者……この思考実験に関連付けられる創作物や、この思考実験を元にした創作物は存外に存在する」

 作家の男の解説に、同居人は感心した様な様相で納得した様子を見せた。

「なるほど、世界五分前ナントカに関しては理解出来ました。それで、それがどうかしたのですか?」

「ああ、ボクはさっき気が付いたんだが、この世界は五分前に生まれた物だ」


 ある作家が机の前で突っ伏してまどろんでいた。

彼は自分が突っ伏して意識いしきを失っている事に気が付き、意識を覚醒かくせいさせた。眠りから醒めた彼が最初に見たのは、何も書かれていない白紙の画面を示すコンピューターだった。

「ボクとした事が、アイディアが出なくて目を閉じて考え事をしているうちに居眠りしてしまったか……だが、お陰で良いアイディアが浮かんで来たぞ」

 作家の男は眠っている内に思い浮かんだらしいアイディアで、作品をコンピューターに打ち込み始めた。まるで現実とは思えない、夢の様な執筆スピードだった。

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