第四百六十九夜『鍋が見ている-go to pot-』

2023/10/11「桜色」「レモン」「最弱の恩返し」ジャンルは「偏愛モノ」


 鍋の中ですっかりと表面が焼けて甘い匂いをただよわせるネギと、ミディアムレアに焼けたサシの入ったまだ桜色と言える牛肉に割り下をかける。ネギと牛肉が割り下に充分浸かるだけの水位になり、俺は鍋に豆腐とうふと油揚げと切ったニンジンにシイタケとタマネギとマイタケを加えて綺麗きれい整列せいれつさせる。

 後は鍋にふたをして、このまま弱火で割り下が軽く沸騰ふっとうして諸々の野菜が柔らかくなるまで煮れば、すき焼き煮の完成だ。

 しかし、俺には気になる事が一つあった。料理している間から鍋に蓋をするまでの間、ずっと鍋が俺の事を目で見ていたのだ。

 勿論そのままの意味ではない。もっと言うと、鍋が目で俺を見ている気がしたと言う方が正しい。それと言うのも、この使い込まれた鍋にはハゲが出来ており、そのハゲがまるで眼の様な模様に感じられ、そのせいで鍋に見つめられている気がしてならないのだ。木目が人の顔に見えると言う話はよく聞くが、丁度それに似ている。

 しかし木目が人の顔に見えるというのは、脳の錯覚に因るものだ。つまり、よそ事を考えたり別の事を考えていれば、その様な錯覚は起き得ない。ところで俺の弟はレモン味の鍋物が好きで、俺はその反対だ。俺はすき焼き煮こそが鍋物の最高位と考えており、鍋にレモンだなんて嗜好しこうの真逆もいい所、生卵にレモンを垂らすなんての骨頂もいい所だ!

 その様な愚にも付かぬ事を考えつつ、そろそろ野菜が煮えた頃合いかと鍋の蓋を開ける。

「………………」

 鍋の蓋を開けた瞬間しゅんかん、鍋が目を細めてこちらを見ている様に見えた。

「これはもうダメだな。調理中に気が散るってのもなんだし、そもそも気味が悪い。今度業務用スーパーで新しい鍋でも探してくるか……」

 今度は鍋が悲しんでいる目で俺の事を見ている気がしてきて、俺は鍋を再び閉じた。

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