第四百三十夜『一つの自首の形-honesty-』

2023/08/30「水」「結末」「嫌な魔法」ジャンルは「童話」


 俺の目の前で恋人が頭から血を流して倒れていた。そして俺の手にはベッタリと血の付いた手斧ておのが握られていた。

 別に何者かが俺の恋人を殺して俺をその犯人に仕立て上げたとか、実は俺は多重人格で俺じゃない俺が恋人を殺したとか言う訳でもない。俺は自分の恋人を自分の手で殺した。

 始まりは些細ささいな事だった。彼女は俺のやる事なす事にケチを付け、俺の事を拘束し、俺の人格を否定した。

 俺は、もうこれ以上この関係を続ける事は出来ないと判断し、彼女に別れ話を切り出した。その後の彼女の醜態しゅうたいたるや、語るに辛く聞くにえない状態だった。

 俺は、罵声ばせいを吐き、顔色を真っ赤にし、口から唾を飛ばし、家財道具を投げる彼女を前にして逆に頭は冴えてしまっており、クリアな思考のままにキャンプ用の手斧を頭部に思いっきり叩きつけた。

 別に俺は後悔などしていなかった。俺はこの先の人生、彼女と言う呪縛じゅばくやしがらみを抱え込んだまま生きていくのは御免ごめんだと確かに理性で考えており、衝動的しょうどうてきに殺害に至った。あんなクソの様な人間関係を続けていくくらいならば、へいの中で過ごす方がマシと言う話だ。

 しかし俺はいざ死体を前にすると、臆病風おくびょうかぜの様な物にりつかれてしまった。塀の中に入ってもいいと思ってはいたが、むしろ被害者は俺の方なのだ、こんなひどい女に反撃はんげきをした程度でブタ箱にブチ込まれるのは理に適わないのではないか? 俺は彼女の遺体いたい遺棄いきする事に決めた。


 当面の問題は、ここは借り物のロッジだと言う事だ。

 綺麗きれいに血液を拭きとっても、血液反応で判明するかも知れない。この件に関しては、ある種の洗剤で洗えば血液反応が起きなくなる様に洗い落とせると聞いた事がある。今ここにある洗剤がその成分を有しているかは知らないが、やらないよりはマシだろう。いざとなったら、狩ってきたイノシシか何かをバラしたとでもでっち上げればいい。

 次に、肝心の恋人の死体だ。幸いにして今は深夜、周囲は木々を始めとした自然が豊富で見通しが悪いキャンプ地。人が足を踏み入れない様な急な斜面の森に埋める等やりようはある。

「そうだ! 少し歩いた所に、がビッシリと水面をおおっている湖があったな。確かあの湖には、日中ザリガニ釣りにきょうじる子供が居た筈だ。ザリガニは悪食だし、人間の死体も食ってくれるだろう」

 これは我ながら良いアイディアだと思った。何故だか分からないが、あの湖を思い返すとうまく行くと言う確信と確証とに溢れて来るのだ。

 善は急げ、俺は恋人の遺体をキャンプ用品を包んでいたカラービニールに包み、ひっそりと近くの湖へと運んだ。時間が深夜なので誰とも出くわさなかったし、このキャンプ場は自然保護しぜんほご観点かんてんから森方面には監視カメラやライトのたぐいも設置されていない。運は今、完全に俺に対して味方をしてくれていた。

 俺は何のアクシデントにも見舞われず、藻に覆われた湖に辿り着く事が出来た。ここで彼女の死体に岩でもくくり付けて、死体が浮かばない様にして湖に捨てれば全ては完遂する。

 彼女との不仲、もとい彼女のドメスティックバイオレンス染みた言動は昨日今日始まった事ではない。つまり喧嘩の末にロッジを飛び出してどこかへ行ってしまったと証言し、帰ってこない事を不審に思っていたとでも言えば怪しまれないだろう。

 俺は彼女の死体を湖に放り投げ、それが上ってこない事を確認した。これで俺はようやく安眠できる。

「な、なんだ?」

 そう思った矢先、湖の中が光り始めた。何か藻の類が化学反応を起こして発光でもしているのか? そう思って水中をのぞき込もうとすると、中からギリシャ神話で見る様なトーガを身にまとった綺麗な女性が上って来たではないか!

 俺が訳が分からず、目の前の非日常的な出来事に対し、声も挙げられずにただ口をバクバクしていると、湖から出て来たトーガ姿の女性は両手を使って俺の恋人だった遺体を抱えながら俺に対して言った。

「お前の落とした遺体はこれか?」

「え? あ? はい、そうです……」

 俺は突然の出来事に頭が追いつかず、馬鹿正直にそう答えてしまった。今思うと、これが俺の人生の最大の失敗だった。


 俺の目の前で頭から血を流して倒れていた。

 何者かが俺の恋人を殺して俺をその犯人に仕立て上げたと言えるし、実は俺は多重人格で俺じゃない俺が恋人殺したとも言えなくもない。

 最大の問題は、この三つのどれも俺がこの手で確かに殺した死体とかみや肌の色以外は全く同一と言う事だ。

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