第四百十五夜『虞美人そうそう・裏-chairwamer-』

2023/08/12「風」「迷信」「恐怖の主従関係」ジャンルは「ラブコメ」


 コンピューターのモニターがただただ何を表示していない、真っさらな画面を示していた。

「ところで先生、進捗はいかがですか?」

 俺は今、煮詰まっていた。無論俗にいう悪い意味で、だ。

 モニターは何も表示していないのではない、何も書き込まれていないのが正しかった。

「焦らなくてもいいんですよ、ゆっくり考えなければいいアイディアは生まれませんからね」

 彼女はホワイトアウトしたかの様なモニターを見ても、目くじら一つ立てずに優しく語りかけた。別段皮肉で言っている訳ではない、心からそう言っている。

 このホテルー虞美人草荘ぐびじんそうそう―は作家の類にとっては天国か、或いは地獄だと専らの評判が立っている。事実、このホテルに泊まりに来ている客は缶詰に成りに来た小説家や放送作家、趣味の悪い倒錯者やら配信者、その他怖い物見たさの物見遊山だ。

 俺が泊まっているこの部屋も大変居心地の良い客間で、ここから見えるのは一面の青い海、窓からは心地よい風が通り抜け、下品でけたたましいレジャー用の帆船なんて物は見えず、見えたり聞こえるのは海鳥が専らでおだやか且つ風流と言った所。なるほど、ここは人にとっては座敷牢ざしきろうの様に、それこそ作家の地獄と感じられるかも知れない。

「お腹が空いたのでしたら、何かルームサービスを頼みましょうか? もし買って来て欲しい物があったら下の売店まで行きますから、遠慮えんりょはなさらないで下さいね?」

 彼女はこう言ってくれるが、俺は今現在とても充足感を覚えていた。何一つ足りていない気がせず、彼女の甲斐甲斐しい献身で俺はくちくなっているし、持病の腰痛と肩凝かたこりもここの温泉のお陰ですっかり治ってしまっている。ついでに言うと、この部屋の居心地の良さと布団の具合も良く、体調も万全と言った所。

「大丈夫、駄作を作る事を恐れるのは誰だって同じ。出来なんて気にせず、ゆっくり作ればいいんです。何時までも待ってますよ」

 彼女はたおやかに言うが、しかし俺は何とも言えず心に謎の過不足を感じていた。普段の俺は空腹に脳が支配されて何も考えられなくなって好物のラーメンをすすり、くちくなれば俄然がぜんガッツとアイディアが湧いて来る。またある時は腕や腰や肩や眼球の奥の方が痛みながらも、自分の体にむちを打って書いている。眠い時はブラック無糖むとうのコーヒーをがぶ飲みしながらガムをんで書く、それが俺と言う人間なのだ。

 しかしこのホテルに来てからと言うもの、何故だか俺の心はまるで筋弛緩剤きんしかんざいでも打たれたように幸福感に包まれている。生きている実感もあり、確実に幸せなのだが何故だか書く事が全然できなかった。

「人間、不調と好調があるものです。そういう時はただひたすらインプットをする日にすれば良いのです」

 インプット! 彼女の言葉は、俺に対して光明になった。俺はコーヒーが好物なのだが、カフェやファミリーレストランで度々コーヒーを飲みつつ読書や作業をすると不思議とはかどったものだ。

「それでしたら、コーヒーを淹れて来ますね!」

 俺がそう口に出すと、彼女は一を聞いて十を知った風に行動をし始めた。コーヒーくらい俺も淹れられるのだが、折角世話を焼いてくれるのだから甘えさせてもらう事にしよう。事実、このホテルは作家にとっての天国だとうわさないし評判なんだ、コーヒーを誰かに淹れてもらってもバチは当たるまい。

「何でしたらもっと頼って、甘えてくれても良いのですよ?」

 彼女がコーヒーカップを優しく置きながら、俺にそうささやくように言った。コーヒーに口をつけると、これまで味わった事の無い質実剛健しつじつごうけんな苦みとフルーティーな苦みが口腔から鼻腔にかけてをくすぐった。なるほど、これが天国のコーヒーか。

「ところで君はどこの誰で、俺に対してここまでしてくれるんだい?」


 このホテルー虞美人草荘―は今、煮詰まっている。良い意味で煮詰まっている。

 このホテルは宿泊客がよく自殺するとか、利用客は専ら缶詰にされに来た作家ばかりだとか、生ける屍が宿泊しているとか、行方不明者が頻出ひんしゅつするだの、止まった客は天国へ行く事になるとか言われている。

 とりわけ興味深い噂は、作家の天国と言う物。このホテルに泊まった作家は謎の失踪しっそうと言う形で死に、未来永劫永遠に苦しむ事は無く、生みの苦しみも、創作の不調も、誰からも作品を作る催促さいそくも無く、あの世で延々と酒池肉林で満ち足りて暮らすと言う。

 このホテルで自殺者がよく出ると言うのは真っ赤な嘘だ、事実無根だ。それでも虞美人草荘にはそう言った噂が止む事は無い。火の無い所に煙は立たぬ。

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