第三百八十二夜『平和は些事にとりあわず-in the Rue Morgue-』

2023/07/04「鳥」「ことわざ」「穏やかな時の流れ」ジャンルは「サイコミステリー」


 アパートメントの一室、酷く神経衰弱しんけいすいじゃくした様子の男が居た。

 彼は空っぽの鳥籠とりかごうつろ目で眺めており、何か意を決した様な仕草をしたと思ったら何もせず、今度こそは決意を固めたと言った様相を示してはやっぱり何もしない……そんな動向であった。

 彼がこんな状態に陥った理由はいくつかあるが、端的たんてきに言うとペットの鳥が迷子になったからだ。迷子の鳥が今どこで何をしているかと思うと、心配で心配で夜は眠れないし食事ものどを通らないと言った有様。だからこそ神経衰弱状態にある訳で、目つきはすっかり異常さを含んだギョロ目で、食生活も激変してすっかりせぎすになってしまった。

 彼の脳内には今でも自分の鳥の事だらけで、人懐ひとなつっこいも悪戯いたずら好きなあの子がどこで何をしているか心配で心配でならなかった。


 ところで皆さんは、高層ビルの上から硬貨こうかを投げると真下に居る人間にぶつかって死んでしまう。そんな都市伝説をご存知だろうか? 聞いた事ある方も聞いた事無い方もご清聴願いたいのだが、これは真っ赤な嘘である。

 地球で遥か上空から物を落としても、それはある程度の速度までしか加速が出来ない。故に硬貨程度では、精々人体にはタンコブを作る程度の損傷しか与えられないだろう。もしもそうやって人を傷つけたいのであれば、大きなハードチーズかライフルの弾が良いだろう。それは充分、人間を殺傷する用途ようとに耐える。

 しかしちょっとした悪戯では人はケガ一つ負わないと言う訳でも無い。過去には卵を投げつけられた結果、卵のからが眼球に刺さって失明したと言う事件も存在する。ちょっとした悪戯で人間は永遠に光を失う事が出来るのだ。卵もハードチーズも危険物なのだ、凶器なんて物はスーパーマーケットで充分購入こうにゅうする事が叶う。

 ちょっとした悪意や悪戯でなくとも、ちょっとした失念でも人の命は失われる。今日こんにちに至るまでの古今東西で起きた数々の事故は、その事を雄弁に語っていると言える。例えば人が居る事に気が付かずに機械きかいのボタンを押してしまい、そのせいで人体がプレスされて死に至らしめてしまった事故なんて物はいて捨てる程に聞く。他にもフランスでは、オランウータンのおりのカギを掛け忘れた結果、逃げ出したオランウータンがアパートの住民を絞殺こうさつしてしまった事件が有名だ。


 繰り返す事になるが、男は空っぽの鳥籠を虚ろ目で眺めては思い悩んでいた。あの人懐っこくも悪戯好きなキツツキが、今どこで何をしているかと考えては気分がなまりの様に重くなるのであった。

 キツツキは男に取って我が子同然だった。キツツキはひなの時から男の手で育てられ、男を親と思っている節さえ有った。

 しかし、男の最大の懸念けねんはそこでは無い。あのキツツキは民家で暮らす事に慣れており、しかしキツツキと言うのはえさを得るために木をっつくものなのである。

 結果として、キツツキは空腹を覚えると証明のスイッチをくちばしで突いた。ペットと言うのは時に飼い主のする事をマネするもので、そしてこうすれば飼い主の気を引く事が出来て、餌にありつけると学習してしまったのである。

 男は自分の子供同然のキツツキをしかる事も出来ず、せいぜいする事と言えば家中のスイッチと言うスイッチを板で補強する程度だった。

 しかし、そのスイッチを突っつく事を覚えたキツツキがある日逃げてしまった。

 始めこそ、男は迷子のキツツキの届け出を出そうと家を飛び出した。しかしあの悪戯好きなキツツキが脳内で、満員の駅のホームで緊急停止ボタンを押して駅を混乱に陥れるシーンが一人でに流れた。

 男はその想像に冷たい嫌な汗をかき、足を止めてしまった。悪戯で緊急停止ボタンを押したら威力妨害いりょくぼうがいに問われてしまうし、ペットが損害を与えた場合は飼い主が責任に問われるのだ。このままでは動物裁判が開かれ、キツツキが有罪になってしまう。

 いや、これが駅の電車の緊急停止ボタンならまだ良い。これが重機かプレス機か何かのスイッチで、その結果死者が出てしまったらどうなる? 男は過失致死の殺人犯となってしまう。もし牛が人を突いて殺すならば、その牛は必ず石で打ち殺さなければならないのである。

 結果、男はトボトボと弱い足取りで自室のあるアパートへと帰り、何事も無い様にと祈るしか出来なかった。

 男にとって幸か不幸か、キツツキが発端ほったんでニュースが世間をにぎやかす事は今のところは無い。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る