第三百五十五夜『プラナリアの仮面-Turritopsis-』

2023/06/04「花」「目薬」「無敵のメガネ」ジャンルは「偏愛モノ」


 ある所に腕の良い催眠術師さいみんじゅつしが居た。彼は心理学者や医療従事者いりょうじゅうじしゃではなく芸人とでも言うべき人物で、大道芸みた催眠術で被験者の動物に自分を他の動物だと信じ込ませる催眠術を得意としていた。

 催眠術師の手にかかれば、猫は自分をアライグマだと思い込んでもらったいもを洗って食べるし、犬は自分をレッサーパンダかアリクイだと思い込んで二足で立ちあがって威嚇いかくをする。

 しかし、催眠術師はこの生活が嫌いだった。彼は自分の実力を自負じふしており、自分の催眠術は最先端医療さいせんたんいりょうで使われるべきだと考えており、更に言うと大道芸などではなく、テレビで大々的に報じられてしかるべきだと確信していた。

 この催眠術師は実際うぬぼれ屋ではあるが、その実力は本物だった。彼が猫に物を洗わせたり、犬をたどたどしく二足で背伸びをさせると観衆はドッとき上がる。

 催眠術師は自分の完璧な技を見て、自分なら人間を動物だと信じ込ませる事すら可能だと、そう考えていた。そして彼が自分こそ最先端医療にたずさわるべきと言う思い上がりをしているのも、根拠こんきょが皆無と言う訳では無かった。

 がんとは、細胞が人間ではない自我に目覚めた病と言う表現が有る。癌細胞はその人個人とは別の存在なのだから、自分の意識や機能とは関係無く増えていくし、その結果その人を害するのである。

 他には幻肢痛げんしつう、或いはファントムペインと呼ばれる病気が有る。存在しない足が痛んだりする病で、患部が存在しないのだから外科的手段で治す事が不可能であり、もっぱらセラピーで治療するのが普通とされている。

 催眠術師はこれらの病を、自分ならば暗示の一つで完治出来ると考えていた。これはあなたの抱えている病気の特効薬ですよ! と、そう言いながら小麦粉だのタダの目薬だを与えれば、それで健康体に出来ると確信していた。しかし許可無く医療行為を行なって、前科者にでもなってしまっては御破算ごはさんだ。自分は優秀な催眠術師です! ですから被験者を提供して医療行為を行なわせてください! と、そう言う代わりに、こうして催眠術師として名を売っているのである。

「全く、俺なら病人を暗示で健康体だと思い込ませて、心因性の病気だったら完治だってして見せるのに……」

 これが良くなかった。彼は悶々もんもんと考え事をしながら歩いていた、考え事に夢中になりながら歩いていたため、赤信号を無視して横断歩道を歩いてのだ。なお、この道路は交通量が多く、よく道路脇に献花がされている。

 強烈な金切り音、ハッとして音の方を向く催眠術師。大型トラックがすぐ前まで迫っており、彼の視界にはトラックのフロントパネルしか映らない程だった。

「グアアアアア!」

 催眠術師は全身に衝撃しょうげきが走るのを感じ、視界が荒ぶる形で空を映して身体が宙を舞ったのを理解した。

 催眠術師の気分はもう最悪だった。体をしたたかに打ち、宙を舞い、かけていたメガネはレンズもフレームもお釈迦しゃかだし、身体を地面に叩きつけられて全身を損傷している。意識は朦朧もうろうとするし、全身が痛すぎるし、下半身に至っては何の感覚も無いし動かせない。

 催眠術師は倒れたまま動けなかったが、丁度視界の高さに車のホイールがあり、それが鏡の役割りをした。感覚が無いと言う事は、さぞズタズタに酷い事になっているのだろうと、彼は自分の下半身を倒れたままの姿勢で見た。しかし彼が見たのは、自分の肉体の腰から下が千切れて分離ぶんりし、自分の肉体が真っ二つになっている事だった。

(うわあああああああああああああ!)

 催眠術師は力の限り絶叫した。絶叫した積もりだったが、声はかすれて声にならなかった。誰の目でどう見ても致命傷だ、何せ真っ二つになった肉体から千切れた内臓ないぞうがこぼれているのが見えるのだ、仮に救急車を呼んでも助かる事が無いだろう。

(違う……俺は死にたくない! 俺は天才だ! 天才は偉業を果たす義務があり、そのためには何をしても許されるのだ! 天才は例え死んでも、生きるのだ!)

 催眠術師は自分が死のふちに居る事を理解し、最後の力を振り絞った。彼は視界の先にある鏡のごときホイールを、地獄に垂らされた蜘蛛くもの糸だと言わん限りに目でとらえ、動かない手で指差して言った。

「お前は不死身だ……お前はプラナリアだから体を真っ二つにされた程度では死なないんだ……!」


 病院に急患が運ばれて来た。誰がどう見ても致命傷だと言う、交通事故の被害者だと言う話だったが、実際に運ばれて来たのは傷一つ無い、物を言わない二つの肉体だった。

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