第百七十六夜『完全無欠の薬-Primeval Brew-』

2022/11/18「海」「金庫」「新しい大学」ジャンルは「ギャグコメ」


 樽編だらむ大学の森教授と言えば、その道の人で知らない人は居ない傑物けつぶつだ。恐らく彼と分野が交わる人は、何かしら彼の著作や論文に必ずや触れているだろう。

 森教授の研究分野は犯罪心理学で、彼はこの道の権威とまで言われており、彼の研究内容はミンメイパブリッシング社から出ている心理学や法学の教科書にも載っている。即ち、間接的に森教授の世話になっていない学生は居ないと言っても過言では無い。

 森教授の現在の研究内容を、彼自身は完全無欠の薬と呼んでいる。何でも完全犯罪を可能にする複数の薬品で、彼自身はこれを愚にもつかない研究と評している。では何故そんな研究をしているのか? それは理論を思いつき、実現が出来そうだと考え付いてしまったからである。愚にもつかぬと認めながらも実現に向って歩んでいるとは訳の分からぬ話だが、世にある研究とはその様な物も多いのだから馬鹿に出来ない。

 森教授は薬を調合してモルモットに与えたところ、みるみるうちにモルモットの姿が消えていった。しかしケージの中ではモルモットが動き回る様に巣材が動き、モルモットが消えたのではなく目に見えなくなった事が見て取れた。様子を見た結果、目に見えなくなった事が見て取れたとは奇妙な話だが、にもかくにもモルモットは透明になってそこに居るのだ。

 この実験結果を見た森教授はノートにあれやこれやを書き留め、更に別の薬を別のモルモットに投与した。

 しばらくするとモルモットに変化が見られた、こちらのモルモットはケージの中にもぐっていったのだ。いいや、ケージの中に潜ったとは少々語弊ごへいがある。ケージにいてある巣材を掘って潜ったのではなく、ケージの底を透過したのだ。ケージを透過した次はケージを置いてあった実験台を透過し、実験室の壁を透過してどこかへ走り去ってしまった。

 この実験結果を見た森教授は、興奮しながら満足そうにノートに実験結果を殴り書き、ガッツポーズをして小さく叫んだり歌ったりをした。

「実験成功おめでとう教授。それではその透明薬と壁抜けの薬は渡してもらおうか? その製法や実験結果をまとめたノートもだ」

 いつの間にか、森教授の背後には闖入者ちんにゅうしゃが居た。彼は首筋に何かを突き立てられる感覚から、ナイフか何かで脅されている事を悟った。

「待て、待ってくれ。それは困るよ、その薬はまだ世に出せる物じゃないからね」

「この状況での第一発言がそれとは、さすがは教授だな。だがつまらない謙遜けんそんは結構、私の目から見てその薬は完成している」

 森教授の耳に届く声に、彼は聞き覚えが無かった。しかし、闖入者の喋る様子は森教授の事を見知っている様でもあり、ボイスチェンジャーでも使っているか、もしくは彼の事を念入りに調査したスポンサーか情報スパイと言ったところだろうか? 全く、守衛は何をしている! と、彼は心の中でそう毒づいたが、スポンサーかスパイに出し抜かれたならば、守衛を責めるも酷と言ったところかも知れない。

 たちまち森教授は椅子に縛りつけられてしまった。彼の目に闖入者の姿は映ったが、これが目出し帽で顔を隠しており、彼には正体が見当もつかなかった。

「一応警告しておくが、その薬は飲まない方が良いよ」

 森教授が闖入者に助言した瞬間しゅんかんだった。ジリリリリと、校内に警報が鳴った。二人は知る由も無いが、守衛が何者かが構内に侵入した形跡を見つけたのだ。

「ご忠告ありがとさん! では早速この飲み薬を使わせてもらおうか、折角だから二種類とも服用しよう」

「待て! その薬はまだ未完成なんだよ!」

 椅子に縛り付けられたまま叫ぶ森教授を見て、闖入者は冷笑を投げつける。

「謙遜はまだしも嘘はよくないな教授、嘘は良くない事だって学校で先生に習わなかったのか? お前さんのノートには薬効は完璧だと書いてあり、しかもご丁寧ていねいに人間への投与量も書いてあるじゃないか。これで未完成だなんて、へそで茶をかすぜ!」

 闖入者は吐き捨てる様にまくしたてると、薬をノートに書かれた量だけ二種類ともを飲み干した。

 薬効はすぐに現われた。何せ森教授は一種の天才だ、彼の計算や推測は専ら当たる。まず闖入者のいていたズボンが、まるで摩擦まさつを完全に失ったかの様にスルリと自然に脱げて落ちた。

「え?」

 ズボンだけではない。闖入者の身に着けている物全てがツルリツルリと脱げ落ちた。しかし服が脱げ落ちた姿は透明で、向こう側が透けて見えた。

「こりゃすげえ! 教授、あんたは本物の天才だな!」

 喜び勇んで興奮した闖入者だが、教授は対照的に落ち着き、そして呆れていた。

「あーあ、私は忠告したよ。もう知らない」

「何を言っている? 俺はこの力で何だってやってやる! そうさな、まずは銀行に忍び込んで金庫の中身を拝借してやろうか……」

 そう計画を思案している最中、闖入者の身に第二の変化が訪れた。視界がおかしい、妙にぼやける。いや、ぼやけるのではない、視界が真っ白になったのだ! 闖入者はホワイトアウトした視界に恐怖し、しきりに手で目をこするもこれがぬかに釘、目をこすっている感覚はあるが、眼球が復旧する様子も機能する様子も全く無い!

「おい教授! お前、俺の目をどうした!?」

「言わんこっちゃない。他人から眼球が見えなくなったんだ、つまりは眼球が何も反射していない訳だよ。仮に目の見える透明人間が居るとしたら、それは眼球が写す機能を保持しているんだから、透明人間とは名ばかりで眼球だけ宙に浮かんで見える事になるんだよ」

 森教授はパニックを引き起こした闖入者に対し、小さい子供をさとすように、それこそ子供科学電話相談の窓口の様に教えた。何せ本職の教授なのだ、物を説明するのはプロと言わざるを得ない。

「このクソ野郎! 俺をだましたな!」

「別に騙してないよ、私は飲むなと再三再四言ったからね」

 闖入者は森教授に罵詈雑言ばりぞうごんの限りを投げつけようとしたが、その時第三の変化が体に訪れた。足が地面にめり込み、まるで実験室の床が底なし沼の様に闖入者を飲み込み始めたのだ。

「おいクソ野郎! 何が起こっている! 説明しろ!」

「壁抜け薬の影響だね。考えてもみたまえ、人間は地に足を着けて生きている、つまり常に地面と言う壁の恩寵おんちょうに与かっているいる訳だね」

 全身透明になった闖入者はみるみるうちに実験室の床をすり抜け、全身が見えなくなってしまった。いや、今さっき透明人間になった訳だから、見えなくなったと言うのはおかしい。しかし例えば底なし沼に沈んだ人間の事を見えなくなったと表現するのは一種当り前の事であって、例外的事象を除いた場合何も間違っていない訳である。それではこれを例外として認めるか、代替となる表現を考えなければいけない訳なのだが、これがまた難しい。透明人間が地面にめり込んで消えていったと地の文に書いたら、これを読んでいる読者諸君の混乱の元であり、故に透明人間になった結果見えなくなった闖入者が地面にめり込み姿が見えなくなってしまったと書かざるを得ないのである。全くナンセンスな話である。

 そうこう愚にもつかぬ駄文散文を書いているうちに、闖入者の体は重力に従って大学の地下室へ、地下室の更に下へと沈んでいった。仮にここが海上であっても沈み、沈み続け、海底の更に下へ沈んでいくだろう。闖入者の体が止まる事があるとしたら、それは地球の核にまで到達したらだろう。しかし文字通り裸一貫の人間の肉体が地球の核まで無事に届くかと問われれば、無理としか言いようが無い。

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