第百七十夜『ひっくり返った記憶-Othello-』

2022/11/09「暁」「氷山」「最初の物語」ジャンルは「ラブコメ」


 これは私がナースをしている友人の、そのまた友人から聞いた、本当にあった話だ。

 つまり、この話の本質は『友人の友人から聞いた本当にあった話』であって、ナースをしている友人は一切関係ない。

 もっと言うと、友人の友人と言うのは私自身の事であり、本当にあった話と言うのは作り話と言う意味だ。それでも良ければ聞いて欲しい。


 病院の一室に白衣に身を包んだドクターとナースが居た。ドクターは何やら資料に目を通しており、ナースはそれを心配そうな表情でたたずんで見ていた。

「俗に記憶喪失きおくそうしつと言う健忘の一種、即ち全生活史健忘は記憶が一切無くなると言われているが、君はその状態をどう言う物だと想像する? 人間の長期記憶は肉体に染みついていて、頭が忘れても手が覚えている状態であり、本当の意味での記憶喪失なんて物は無いと思われる。そもそも人間の記憶は忘れない長期記憶と忘れてしまう短期記憶とがあり、深く覚えた事は忘れた様であっても氷山の一角よろしく本質的には忘れていない。これが私の推測だ」

「なるほど、私もそう思います。私も寝ぼけ眼で、生活のリズムの反復と言うのでしょうか? 寝ぼけていても、まるで体ははっきりと目覚めているかのように動く経験はあります」

「ああ、そうだ。例えば配偶者を『あんた』とか『お前』と呼ぶ人が居て、彼女ないし彼が記憶喪失になったとしよう。記憶が無い状態の筈でも、ふとした拍子で『あんた! またこんな時間まで一体どこをほっつき歩いてたの!?』と言った様な旨の言葉を叫ぶかも知れない」

「先生、それは例え話ですか? 実際に過去にあった話か何かだったりしますか?」

 ナースは室内で気を失って倒れている若い男女の方を見て、そう言った。倒れている男女二人は共に目立った外傷は無く、左手薬指にはペアリングを着けていた。

「それが少々込み入ったややこしい話でな……この二人は本来、夫婦喧嘩の最中で揉み合いになり、頭と頭をぶつける形で気を失って倒れた急患らしい。核家族ではなく大家族なのが不幸中の幸いだった」

「ご家族の方が連絡したのですね」

「ああそうだ、そして特に大きな外傷や脳内出血も無かった。しかしここから話がややこしくなる、春眠暁を覚えずなんて事も無く、この夫婦は安静に寝台に寝かせておいていたら意識を取り戻した」

「それはおかしくありませんか? 今こうして二人仲良く気を失っているじゃあありませんか」

 ナースの指摘に、ドクターは遠い目をしながら話を続けた。

「ああ、私も自分で話していてどこまで話したか意識しておかないと混乱してしまいそうな話なのだが、担ぎ込まれた急患二人は意識を取り戻した。意識を取り戻した二人を検査しようとしたら、二人は先に話した様に俗に言う記憶喪失の反応を示し、そして二人は互いに一目惚ひとめぼれした」

「あら素敵」

「なんだかんだで一度は恋愛結婚を果たした二人だと言う事だろうな、二人とも記憶喪失らしい言動のまま、初々しい知り合ったばかりのカップルの方に振舞っていたよ」

「素晴らしいじゃないですか、でもなんで今二人は昏倒こんとうしているんですか?」

「少々話を巻き戻そう。記憶障害はストレスや外傷の他、飲酒や薬剤が原因で起こったりする。老人性の物もあるが今回は別物だから除外するとして、トイレで思いっきり気張った結果記憶喪失に陥った等ショックに因るケースもあるそうだ」

「最後のはちょっと意味が分かりませんが、とにかくショックを受けたせいで健忘におちいると言うのは理解できました」

「ああそうだ、二人は一目惚れして恋に落ちた。そして自分達が夫婦である事、容態は記憶喪失である事以外は何ら問題無い事を教えられた後、事もあろうか診療室内で熱々のキスをした」

「室内で、ですか? それはちょっと何と言うか、ドラマや映画でも普通は病室か外でするものじゃないですか」

 ナースはドクターの報告に対し、喜ぶやら呆れるやら分からない反応を示した。何時まで経っても心は若いままと言った様相だ。

「私に言われても困る。現実は小説よりも何とやらと言う奴だろう、恐ろしい事に病室内で情事に及んだカップルを見かけたと言うルポルタージュも存在するんだ。キスをするだけならば、実害が無いからマシと考えておこう」

「それで、その二人が何で倒れているんですか? 訳が分かりません」

 そう言うナースの言葉に、ドクターは資料をまとめたバインダーで目をおおって、物憂ものうげになげく様な仕草をした。

「ああ、キスをするだけなら実害は無かった。キスをした二人は記憶を取り戻し、途端に何やら痴話喧嘩ちわげんかをし始め、掴み合いの喧嘩に発展して、頭と頭をぶつけて気を失ったよ」

 ドクターの言葉にナースは言葉を失った。呆れるやら、落ち込むやら、関わり合いになりたくないと思うやら、しかしそんな理由で職務を投げ捨てる訳にもいかない。

「なあ君、これどうしよう?」

「どうしようって、意識を取り戻す様治療するしかないんじゃないですか? 受け入れちゃった訳ですし」

 ドクターは軽くショックを受けた様な、心の底から嫌そうな顔をしていた。そう、まるで全部忘れて何もかも投げだしたいと言いたそうな……

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