第百四十二夜『忘れられた神-Ancient One-』
2022/10/07「森」「ヤカン」「最強の記憶」ジャンルは「SF」
「ダメだ、全く書けん」
ある作家が机の前でボヤいていた。その作家は学生時代からノートやキーボードに
アイディアはある、やる気もある、仕事環境だって悪くないし、体力作りは日課のランニングのおかげでたっぷりだ。しかし、書けないものは書けないのだ。
「またですか、先生? コーヒーでも淹れてあげるから今日は大人しくしていてくださいよ?」
作家の同居人は落ち着きの無い子供を言い聞かせる様な口調で釘を刺す、これに対して作家は気分を害したような態度を示した。
「おいおい、それはボクが買ったインスタントコーヒーじゃないか。まあいい、ありがたく
作家の同居人は
「何かしてもらって
作家の同居人は苦言を
「そんな事あったかな? 忘れた」
「忘れた。じゃありませんよ! 飲もうと思った時に缶コーヒーが無くなっている
そう言う作家の同居人に対し、作家はあくまで
「知らないな、全く知らない。忘れたものは覚えていないんだ、仕方ないだろ。そうだ、これはお詫びでも何でもないんだが、この間ボクが隣の県の神社で体験した話をしよう。この話は
「またですか? いや聞きますけど……しかし、朧気ながらうろ覚えってなんですか?」
「この話は他の体験同様、確かに記録したし記憶した筈なんだがね……ボクはその体験をすっかり記憶から忘れ去ってしまっているんだ。だから話す事が出来るのは、あくまでボクの覚えている
「なるほど、都市伝説が出来る様なロケーションかと言われたら適切な部類だな。そもそも人里離れて居たり、認識されていない場所では実在の場所が都市伝説の舞台になる筈がないものな」
時刻は昼。ボクは隣の県にある、都市伝説の舞台となっている神社を訪れていた。
初めてその旨を聞いた時には、神社を都市伝説の舞台にするだなんて暴勇な
ボクは何となく、夜中に色気づいたカップルがそこらへんの木陰で青姦でもしているシーンを想像し、余りにもありがちでつまらない、仮に自分がそれを読み物として提出したら
「参拝客の方ですか?」
つまらない空想をしていたら、背後から声をかけられた。振り返ると上下に伸び切ったジャージを着た、
「ええ、ここの神社には面白い
ネットで何を
「ああ、それはなあ。ここの神さんは、それはそれは大昔から居る大変えらい神さんなんだよ」
しめた! どうやらこの老人はこの神社に祀られている神が何者か知っているらしい。神社にインフォメーションやら立て札があるだろうが、それを読むだけだったらそれこそネットで調べればいいだけだ。こうして近隣の住民らしい人から感情の
「なるほど、もしよければお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「ああ、ああ! 勿論です。ここの神さんは、それはそれは大昔から居る大変えらい神さんでな、何だったかな……何だったか忘れたがそれはそれは偉い神さんなんだよ」
はて、老人性の
「えっと、事細かにでなくて結構なのですが、大まかにでもご教授いただけないでしょうか? もしくは、ここの神社の逸話とか伝承をまとめた絵本であったりパンフレットなんかは地元に売ってないでしょうか?」
「はて、どうだったかな? 忘れてしまったが、とにかくそれはそれは偉い神さんなんだよお!」
ダメだ、この老人から引き出せる情報は全く無い。いや、ひょっとしたら都市伝説の正体はこの老人のせいであって、この神社は
「そうなのですか、偉い神を祀っているのですね、大変参考になりました。それではボクは神社を見物がてら歩き回る事にしますね!」
ボクはボケ老人を尻目に、神社の由来を書き記した立て札でも無いかと散策する。すると木の陰になって隠れていたが、大きく立派な立て札が立っているのが見えた。
「ふむ、こいつの写真を撮って、それから内容を書き写しておくか」
立て札にはこの神社の名前と神格、御利益が書いてあった。しかしその文章は読んでも頭の中に入って来なかった。
「え? いや、何かがおかしい? 何が起こっている?」
難解な文章だったのだろうか? ボクは閉じた口の中で立て札に書かれた文章を音読する。ダメだ、音読したはいいが、脳味噌には入って行かず、耳から耳へと通り抜けていってしまうような感覚だ!
「くそ、一体何が起こっているんだ?」
こうなったらと、ボクはメモ帳に立て札に書いてある文字を一文字一文字正確に書き写す。予想に反し、立て札の内容を書き写す事は出来た。しかし、書き写した内容が全く覚えられない! しかもメモ帳に書き写した文章も、日本語として成立している筈なのに読もうとすると脳内に留まらない!
「な、何なんだこの立て札は? 内容を一瞬たりとも覚えてられないぞ!」
「それは違うよ、お前さんはここの神さんを理解したんだ。お前さんはこの神さんを理解したから、忘れてしまったんだよ。何せここの神さんはすごく偉いからねえ」
ボクのすぐ背後に例の老人が居た。先ほどまでは気が付かなかったが、この老人は目つきも姿勢もきちんとしている。普通ボケ老人と言うのは目に
先ほど違和感を覚えたが、その原因が今になって分かった。ボクはこの老人が元気そうでボケている様には見えないが、ここの神に言及する時だけボケ老人の様になっているのだ!
(これは、この神社ではこれが普通なのか? ボクもそうなのか? ボクも傍から見たら、あの老人と同じで痴呆を
急に目の前の老人の事が恐ろしくなった。いや、この老人を恐れる理由なんてボクには一つも無かったのだが、それでもボクはこの老人に得も言われぬ恐怖を覚えている!
「ボクはここの神を理解したから、ここの神を忘れてしまった。あなたは今、ボクにそう言ったのか?」
すると老人は、我が意を得たりと言わんばかりに笑顔でボクに返答した。
「ああ、その通りだ。何せここの神さんはとってもとっても偉いからねえ」
どういう事だ? 理解したから忘れた? 偉い神だから何だと言うのだ?
いや落ち着け、人間が何かを忘れるというのは脳の容量の問題の他に、自身を守るために辛い事や苦しい事を忘れる機能もあり、しかし心理的外傷として残った記憶の原因へは近づかない様に本能的な記憶として残る。例えば人体には
つまりこの神は知ったが最後、心理的外傷を負う様な神と言う事か? いや、それでは偉い神と言う老人の言葉と結びつき辛い。余りの偉さに記憶を失うなんて話もあるまいて……
「ここの神は、忘れさせる神と言う事ですか? 辛い記憶だったり、余計な記憶を忘れさせてくれる神。つまり参拝の御利益が明確に現われる、人のためになる神だから偉い存在だと、あなたはそう
ボクはそう結論付けた。この説が
老人は無言で笑って
「とまあ、そう言う話だ」
作家の話を聞き終えた作家の同居人は、ポカンと口を開けて呆けている。
「はあ、その話本当なんですか? 読んでも書いても忘れてしまう文章って、それ実在するんですか? それって写真に写したり、文章を転載して相手に見せたらどうなるんです?」
作家の同居人の言葉に、作家は胸を張って声を挙げる。
「勿論試したさ! ただ、混乱が起こると思って電波には乗せていないがね。結果は……文章は読んだが頭に残らなかった、だ。実験の協力者は違和感こそ覚えたが、余りにつまらない文章で記憶からすっぽ抜けたと理解していたよ。お陰でボクは協力者こと担当の奴にドヤされてしまったよ、ボクは今回も何も悪い事一つしていないのにな!」
どの口で言うんだ、この男は? と、作家の同居人はそう思ったが、
「しかし不思議な話ですね。信仰されているけど忘れられている、御利益もあるけど名前すら知られていない、ただただ噂としてしか覚えられていない。考えれば考える程訳が分からないです」
ボヤく様に言う作家の同居人に、やる気を取り戻したらしい作家はキーボードを叩きながら独り言を言う様な口調でこう答えた。
「ああ、全くだ。捨てる神あれば拾う神ありとは言うものだが、知らない内に這い寄って来る神まで居ると思ってなかった。神ならざる身のボクにとっては、この世にどんな神様が居るのか覚えている事すら難しいぜ」
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