第百十七夜『天国に一番近いホテル-home alone-』

2022/09/07「戦争」「息」「穏やかな恩返し」ジャンルは「指定なし」


 人類は遂に理想郷を手に入れた。人口爆発の懸念は無く、自然は美しく共存し、貨幣経済はきれいさっぱり消失し、戦争は最早過去の物、軍隊も警察も無ければ鍵を施錠する事さえ無くなった。人類がこの様な理想郷に住むようになってから十年は経ったが、食べ物も飲み水も無くなる兆しも無い。

 俺は住居であるリゾートホテルで目を覚まし、冷蔵庫から朝食を取り出して食べる。大きく開かれた窓からは爽やかな風と優しい陽光が飛び込んでくる、見れば人一人居ない美しい青い海が視界中に広がり、白い鳥が猛スピードで飛ぶのが見えた。

 さて今日は何をして過ごそうか? どうせなら昼食は美味しい物を食べたい、昼までたっぷり運動をして、それから厨房を借りて何か作る事にしよう、それがいい。どうせ食料は幾らでもタダで貰えるが、開けた缶詰をスプーンで食べるだなんて退屈極まらない。何せここは理想郷なのだから。


 海沿いの爽快感溢れる風を身に浴びながら、ヤシの木の並ぶ街道を軽くジョギングする。理想郷に住んでいるからと、食っちゃ寝していては運動能力が衰えてしまうし、何より退屈で死んでしまう。

 街道は陽ざしこそ明るいが、ヤシの木の影が丁度いい塩梅に加減してくれる。昨日も今日も最高の運動日和だ、きっと明日も今日と変わらずいい天気だろう。

 ホテルに戻る前に店に寄って映画を何本か拝借する。レンタル価格は勿論ゼロ円、今となってはテレビもラジオも放送をしていないのだから、これが俺にとっては最高の娯楽の一つだ。

 ホテルのフロントに戻って来るが、鍵の貸し借りは行なわない。十年以上前はこの場所にそう言う機能があった事は覚えているし、映画でそう言うシーンもあるから知っている。しかし鍵なんて代物を今見ても少々違和感がある、銃を撃つ訓練をした事が無い人間が知識だけあっても正確に銃を撃てるのだろうか? そう言った感覚に近い物を覚えるのだ。

 レストランは店としての機能を完全に失っている。電気も水道もホテルが所有している発電機やらフィルター付き給水塔で生きているし、この一帯は優しくしとやかな雨天になる事が度々あるし、更に言うと缶入りの飲料水も豊富にあるので厨房そのものは生きている。

 レストランと言う概念は無くなったが、厨房は生きていて誰でも自由に使える。強いて言うなら片付けをキチンとするのがマナーか、そのお陰でこの厨房ではネズミやゴキブリを見た事は無い。別に絶滅なんてしていない筈だが、環境が変わればそう言った生き物も出て来なくなると言う訳だ。

 俺は電気加熱式のコンロで牛肉の缶詰とトマトの缶詰を軽く調理し、同じく缶入りのパンとで昼食をこしらえる。やはり缶詰を空けただけの食事と異なり、食事らしい食事は良い物だ。

 腹も膨れ、昼寝をしようと部屋に戻る。別にどの空き部屋を使っても問題は無いだろうが、やはり生活感とかテリトリーと言う物は大切だ。自室と同じ規格だからと言って、別の部屋で安眠出来るかと言われたら正直怪しい。

 シャワーを浴び、着替え、借りて来た映画を点けながら寝酒を飲む。着替えは勿論無料で貰って来た物で、酒は部屋の冷蔵庫に入れといた物、これも無料で貰って来た物だ。

 映画の内容は、家族に置いて行かれた少年が独りで好き勝手休日を過ごすと言う物だ。初めは神に感謝したり楽しそうに休日を過ごす少年だったが、徐々に不安感が募り、周囲に危険や不信を感じ始める……そんなあたりのシーンで俺の集中力は切れて、毛布を被った。

 この生活は満ち足りている。衣食住も足りているし、俺一人が消費する物資は死ぬまで切れる事は無いだろう。しかし、一日に一度かもっとの頻度で心がざわついて仕方が無くなる。

 誰かと話したい、一緒に食事を摂りたい、例えそれが労働やストレスでも構わない。そう言った考えに頭が取り付かれては、これを振り払うために酒を飲む。眠さと心地よさが感覚を麻痺させ、暖かな眠りに落ちて行く。


 ノックの音がした。部屋はオートロックではなし、そもそも鍵がかかってない。しかしノックの音がする。

 これが誰かが俺の部屋の扉を叩く音なのか、それとも俺が孤独を持て余して聞いている幻聴かは分からない。俺はどうすればいいのか分からず、不安感と恐怖から毛布を被ってベッドで何をするでもなく、ただただ震えて息を殺していた。

 何せ今、地球には俺一人しか居ない筈なのだ。みんな死ぬか地球より良い星が良いと行って出掛けたのだから、ノックの音などする訳が無い。ひょっとしたら生き残りが居たのか、宇宙から帰って来た人類が居るのかも知れない。しかし、俺はどうすればいいか分からない。どうせこれは俺が酒を飲んでみている夢か幻聴なのだ、どうと言う事は無い。

 仮にあれが俺の幻聴でないなら、何を言って来るだろうか? 何を話せばいいのだろうか? 勝手にホテルに住んで好き勝手物資を持ち去っている事をとがめるだろうか? 知った事か、こちらには居住の事実があるのだ、正義に我はありだ。ダメだ、外から来るのは外敵とか犯罪とか戦争と決めつけてしまっている。この様な調子では、仮に友好的な人類がコンタクトを図って来ても俺では力不足ではないか!

 だが待ってほしい。そもそもの話、これが俺の夢か幻聴でないならば、何かの拍子で遭遇するか生活感の名残を見つけるだろう。しかし、俺以外に地球で人類の生活感は全く一つも無いのだ。つまりあれは、俺の不安とか恐怖とかが化けて出た幽霊か幻聴と言う他無い。

 俺はベッドで毛布を被ったまま脇に置いたグラスに手を伸ばし、酒を呷って何も考えない事に務めた。

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