第九十九夜『恋のお約束-Boy Met Goddess-』

2022/08/19「入学式」「コーヒーカップ」「最初の殺戮」ジャンルは指定なし


 春である。即ち新しい季節、入学式の季節、出会いの季節、恋の季節である。

 ある女学生が慌ただしい様子でコーヒーカップからガブリと音を立てて牛乳を飲み干し、トーストになった食パンを咥えて家の外へと走り出た。そのまま猛スピードで道を走り、その猛スピードを維持したまま曲がり角を通ったところ、ある男子学生と正面衝突しょうとつした。お互いイタタと尻もちをつき、しかし相手の顔を見るや否や恋に落ちた。何故ならそれがお約束だからだ。

 何故こんなおかしなお約束があるのか? それは勿論最低限の理由ならある、なにせカジキマグロの活き造りや熱々のグラタンを持ったまま走ったら危ない、恋に落ちる前に命を落とす。しかしながら、何故食パンを咥えて走るのか人知の及ぶところではない。何故なら食パンを咥えたまま走ると言う行為は神々が決めた行為にだからに他ならない。神々が決めた事なのだから、人類には理解も解明も出来ないのである。なるほど、道理である。

 神々と言えば、我々が今日イメージする様なエロスやキューピッドやアモールを思い浮かべるだろうがそうではない。このお約束は日本の物であり、つまりこのお約束を作った神々とは日本の神々に他ならない。

 見れば、この新しいカップルの誕生を見て善しとしている神が居た。首に勾玉まがたまのネックレスをかけ、矛をたずさえ、絹袴きぬはかまを着て、みづらをった、見るからに古代日本然とした男性だ。

 彼はカップルの誕生を見てしとしたが、一組のカップルでは満足せず、次から次へと矛を振ったり、矛から水滴を垂らしたりし、その度にどこかで恋のお約束を経てカップルが誕生した。全てが全てではないが、日本にある恋のお約束の大半は彼が作ったのだから、それは彼にとっては当り前の事であった。

 彼がこの様な事をするのは、彼が若い頃に負った負債とトラウマに因るところが大きい。彼は初めには恋の神様などではなかったのだが、その出来事の後に恋の神様になったのである。

 ある時、彼は自分の恋人を求めて遥か遠くの国まで足を延ばした。その女神はこれを条件付きで承諾しょうだくしたが、男神おがみは女神が身支度をするのを待てずに灯りを灯す。しかしそこに居たのは追い求めた女神のみにくい素顔、この顔を見られたからには生かしておけぬと女神は従者を放つ、男神はこれから命からがら逃れて生還、巨大な岩で道を塞ぎ、例え神々であっても二度と道は開けない。これには女神も怒りの頂点の限界突破である。

「愛おしい人よ、この様な酷い事をするのでしたら、私は日に千人あなたの国の人を殺しましょう」

 大岩の向こうからそう怨嗟の声が聞こえて来て、男神もこれにはビックリである。

「ならば私は産屋うぶやを建て、一日に千五百の子を生み育てさせよう」

 売り言葉に買い言葉、喧嘩けんか腰の口喧嘩、喧々諤々けんけんがくがく、夫婦喧嘩は犬も食わぬ……そんなこんなで男神は啖呵たんかを切ってしまったのだ。

 これが良かったのか、良くなかったのか、神々の言葉は絶対である。例えば、どんなに衛生状態や医学が向上しても、必ず幾分か医学を完全に無視する人間が出る。何せ女神が必ず毎日死者が出る様に呪ったのだから、人類には逆らえないのも道理である。

 これと同じ事が男神にも起こった。男神は自ら女神に啖呵を切った、故に彼は元々就いていたポストから、出産の神に身分を改める事になり、その結果として自ら三柱の神々を出産した。男神が女神の子供をその身に宿して出産したのだ、神々の言葉とはそれだけ絶対的なのである。

 それからはもう目が回る様な滅茶苦茶な忙しい毎日が男神を待っていた。何せ産屋を建てて多くの人間を産み育てさせると宣言したのだ、今や彼は出産の神で病院の神で養育の神で神々の父親で恋の神なのだ。一日どころか一秒だって無駄に出来る時間は無いし、ちょっとでもなまけたら日本の人口は激減し、文字通り死の国になってしまう。

 しかも、彼の仕事には精密さも求められる。何せテキトー極まりない仕事でカップルをくっ付けたとしても、かつての彼の身に起こったように破局を迎えてしまっては人口が増えないし、これは彼のトラウマなのだから無意識下に避けていた。

 これが人の身に起きた事ならば、神様! と叫んで世をうれうだろう、しかし人ならぬ神の身である彼にはそれすら出来ない。そんな事をする暇があったら、食パンを咥えて走る様に人類にけしかけると言うものだ。

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