第三十五夜『悪魔の教示者-Humanism-』

2022/06/14「裏取引」「人間」「無敵の運命」ジャンルは「邪道ファンタジー」


「ダメだ、全く書けん」

 ある作家が机の前でボヤいていた。その作家は学生時代からノートやキーボードに噛り付いて暮しており、筆の速さが自慢だった。しかし、書けない。

 アイディアはある、やる気もある、仕事環境だって悪くない、体力作りは日課のランニングのおかげでたっぷりだ。しかし、書けないものは書けないのだ。

 ノックの音がした。扉の前を映すカメラを見ると、訪問販売に来たサラリーマン風の真っ黒い服の男性が居た。

「ごめんください。わたくしマーク商会から行商に来た、こういう者です。本日はカタログだけでもご覧になっていただけないでしょうか?」

 なんだ、押し売りか。と作家は普段なら相手にしなかっただろう。しかし、今作家は刺激を欲しており、ひょっとしたらセールスマンの口から出る商品が作品のネタになるかも知れない。そう思ってセールスマンを玄関へ招き入れた。

「よくいらっしゃいました、本日はどの様な用向きですか?」

 作家はセールスマンを目の前にして、確信した。この人は自分の商品に絶対の自信を持っている。値段が魅力的なだけの商品だったら追い返してやるが、聞いた事も無いような素晴らしい商品なら話を聞く価値はあるぞ!

「ええ、では単刀直入に。わたくし、地獄から来た魂のバイヤーです。俗に言う悪魔と言う奴でして……」

「悪魔? たましいと引き換えに何でも願いを叶えてくれるとでも言うのか?」

「ええ、その通り」

 作家は一瞬考え事をし、これだ! と手を打った。

「それはいい! 条件にも因るが、ボクの魂で良ければ二束三文で薄利多売はくりたばいしてやってもいいぜ」

「お客様、もしや悪魔や魂の実在を疑っていますか? 魂は一人の人間に一つしかございません」

「ああ、それならそれでいい。悪魔のセールスマンって言うなら契約書けいやくしょとか持っているんだろう? それを見せてくれ、取引に応じるならそれからだ」

 作家はセールスマンから契約書を受けとると、これを精読して満足げに言った。

「契約内容に満足したらならば、死後に魂を譲り渡す。契約から一カ月以内に死を迎えた場合、その限りではない。契約に矛盾が生じた場合、クーリングオフに応じる。気に入った! それでは君、ボクを世界一の作家にしてくれ。それも早急に発表して、ただちにバリバリにバカ売れする奴だ。入稿してから業界目線でなーがーい事経ってから店に並んだり、アンデルセンやゴッホみたいに没後や晩年にようやく売れるのは絶対ダメだからな」

「よろしい、契約成立!」

 セールスマンがそう言うと、作家の頭脳に突如衝撃が走った。アイディアが無限に湧いて来る! 大まかなビジョンではなく、事細かに思い浮かぶ! 今すぐ机に向わねば!

「ご満足頂けたようで何よりです。それでは期日にお迎えに参ります」

 セールスマンが満足げにそう言い終わる瞬間、作家は食い気味にこれを止めて言った。

「ちょっと待ってくれ君、ボクに名刺をくれないか? セールスマンなら持っているだろう、名刺。魂を差し出してでも叶えたい願いを持っている連中を知っているんだ、悪い様にはしない……いや、必ず悪い様にしてやる」


「ふわあ!」

 作家がセールスマンとの商談を終え、セールスマンが去ると突然声が挙がった。あくびと言うよりは、声が出なくなっていた人間が急に覚醒した様な声だった。

「おや、なんだい。起きていたのか? 全く声がしないから眠っているかと思ったよ」

「違いますよ、何故だか起き上がれないし、声も出なかったんですよ。あの悪魔、先生と一対一で商談する為に何らかの手段で声を封じていたんじゃないですか? もう後の祭りですけど」

「おいおい、君ボクを止める積もりだったのか? ボクがみすみす悪魔に魂を引き渡すと?」

「え? 先生って目の前の事しか見えない視野狭窄しやきょうさく人間で、未来の事とか全く考えないから、まんまと引っかかっちゃったのでは?」

 作家の同居人が心底心配そうに言うと、作家はまるでステレオタイプの劇かアニメの悪役の様に三段笑いをし始めた。

「いやいやいやいや、それは誤解だよ。なに、ボクの作家仲間にジャンルこそ違えどボクと同じ位筆が早くて、ボクよりはるかに出世欲や自己顕示欲じこけんじよくが強い奴が居てね、そいつが公開している日記からは毎日渇望かつぼうした文章が書いてあるような人間なんだ。今からそいつの所にこの名刺の詳細を送る、そいつは絶対悪魔と取引して世界一の作家になりたがる、そしたらボクは世界で一番の作家でなくなる、つまり契約不履行けいやくふりこうが発生する訳さ! もとい、あの悪魔は人間の欲望を過小評価していたと言わざるを得ないな! 世界一なんて契約、他の人が見たらうらやましがって破綻はたんするに決まっているのに! 全く、ボクは約束通りカモを紹介して魂を二束三文で薄利多売するポーズを見せてやったと言うのに、困った悪魔も居るものだね!」

 作家は満足げに持論を並べると、机に向って一心不乱に作業をし始めた。

「それじゃあボクは世界一の作家である間に、今あるアイディアを可能な限り出力しておこう。まあボクは筆の速さだけが自慢だからね、ちゃちゃっと書き終えてみせるさ」

「うーわ、先生酷い事考え付きますね。悪魔もその同輩の方も可哀想と言うか、まさしく先生こそが悪魔ですね……」

 同居人のその言葉に、作家は作業をしながら笑って言った。

「悪魔だなんてとんでもない! ボク達は人間なんだ」

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