第十四夜『蛸と春画-mimic octopus-』
2022/05/24「創作」「マンション」「野球」ジャンルは「SF」
手元の
今回私が依頼した絵は、男子高校生同士の友情を題材にしたものだ。今から完成が楽しみで仕方がない。
そう考えながら共同玄関脇のポストを探ると、マンション管理委員からの回覧板が回って来ていた。斜め読みして、次のポストへ回す。
今しがた気がついたが、
おかしい、隣の部屋からは生活音はある筈だが、何か尋常でない事が起こっているのかもしれない。
私はこれを異常事態と仮定し、隣の部屋へとアポなし突入を試みる。
マンション管理人へと連絡して大ごとに発展しては私の気分が悪いし、まさかの緊急事態だったら今突入した方が良いと判断しての事だ。
私の部屋は階のつき当りで、必然他の部屋の玄関を通り過ぎる事になるのだが、隣部屋はぱっと見何の異常も見当たらない。
私は呼び鈴を鳴らすが、特に何の反応も無い。
しかしこの時刻ならば、隣部屋はいつも生活音が聞こえている。
何となく私は毒ガスが
そんな自分勝手な想像をしながら、私は隣人の部屋の戸を引くと、それはあっさりと開いた。カギのロックもチェーンも無しだ。幾ら何でも不用心すぎる。
「失礼します!」
いよいよもって犯罪現場のチョークの人型を想像しながら私は意を決して隣人宅へと乗り込んだ。
居間に名状が困難な青紫色の
肉塊は何やら端末に
私はおおよそこの世の物とは思えない光景に
私が家に乗り込んでも気にも留めなかった肉塊が、私の声には何故か気がつき、振り向いた。
ナメクジの目に似た、けれどもっと丸く短く
すると肉塊は突然引き締まり、変色し、その場にはタイトなパンツとタイトなチューブを着た、黒い
「見た?」
その女性は私の
この事を他言したら自分でも何をするか分からないぞ。と目が語っている、私は口が軽い方でも固い方でも無いが、こんなバケモノに目をつけられてしまってはもうお終いだ。
せめて注文した絵が届くまでは生きていたかったな……そう思いながら自然と涙ぐんだ目を瞑ろうとした。
その瞬間、先程まで肉塊が張り付いていた端末が見えた。
「イゾーとリョーマ……?」
見間違える筈がない、私の一番好きなキャラとその相棒だ。二人とも野球のユニフォームをはだけていて平たくも筋肉質な
「あんた、その絵が分かるのか?」
そう言うとスレンダー女は私の喉を握り潰さんとしていた手を緩め、
「どうだ? あたしの絵は?
スレンダー女は敵意を引っ込めたと思うと、洪水の様に私に質問を投げかけてきた。
先程までの
私はその絵を観て幾つか気づいた。
これは私が注文した絵だ。まだ下書きも見せてもらっていないが、絶対にそうだ。
イゾーはあの作品のそこそこ人気のあるキャラだから題材になるし分かるが、リョーマははっきり言って空気キャラで絡みも無く、イゾーの女房役だが名前が出てくるだけのモブに過ぎないのだから間違いない。しかし、
「この絵、
そう言うと私の喉は再び握られた。
スレンダー女の顔は怒りに溢れ、その眼窩に収まっているのは最早スレンダー女の眼球ではなく青紫肉塊の目玉だった。
「おい人間、今私の絵の事を何と言った? もう一度言ってみせろ」
心の底でえも言われる感情が沸々と沸きあがる。私は隣人の心配をしてここまで来たのに何故首を握りしめられている? 何故妖怪女の逆ギレの被害に遭っている? なんで自分の率直な意見を言っただけなのに
「ふざけンな! 何度でも言ってやる! この絵には心がちっとも籠っていない! こんな物は上手いだけで写真と同じだ! 私のイゾーはリョーマに対してこんな顔はしない! 私たちのイゾーはリョーマに対してそんな真っ直ぐな視線は向けない! イゾーはいつだって自分が一番で! 女房役のリョーマにだって噛みつくし、心はガラスで出来ているし、自分独りじゃ何も出来ないから他人の事をこんな目で見ない! リョーマもそう、リョーマはイゾーのバッテリーだけど、親友で幼馴染で恋人なんかよりずっと深い仲で、いつだってイゾーの事を我が子を見るような目で見てる! お前の絵は紛い物だ!」
言ってやった。
スレンダー女の手を跳ね除け、異形の目を睨みつけ、自分の思っていた事を、この絵はファンやユーザーの事を全く思っていない、自分の意思すら無視した物だと否定してやった。
スレンダー女は私の言葉に気押されたのか、ぽかんと黙り込んで怒りの色は失せ、目も人間の物に戻っていた。
そして私の言葉を聞き終わると、これまでの情緒不安定は彼女らしさなのか、またすっかり大人しくなってこちらに笑いかけた。
「あんたの様な人間を待っていた。あんた、あたしの担当編集者になってくれないか?」
その日から私は、大学とバイトとボランティアで担当の三重生活をする事になった。
自分でも何が何だか分からない。まず私の隣人が私の好みの題材を扱う画家で、しかも人間に擬態したバケモノだってのが分からない。天文学的確率か。
「ところであんた何者で、何時からこうしているの?」
「ああこれね、あたしは異星から地球からの調査に来たの。その際にあたしを受け入れてくれる現地の知的生命体の
ちょっと待て、つまりこいつは私が
「そだよ。
確認したら、確かに書いてあった。天文学的確率か!
「とにかくあたしはあんたには感謝してるんだぜ? あたし達は性質上模写とか人間から見て比べ物にならないくらい上手い、と言うか朝飯前。だけどその一方で外見や視覚から刺激を受容するってのが理解出来なくてねー、先生の絵をマネるのが精一杯。ほら、あたし本来の姿から変装してみせたでしょ? あたし達は普通みんなアレが出来るから外見にこだわりが無いのよ。だからこう言った絵の細かい技巧って言うの? あんたが助け船出してくれなかったら、先生の顔に泥を
いつの間にか助け船扱いされていた、私の意見に対して殺意を抱いていた
「わーかったよ、でもどうかあたしの事は見捨てないで欲しい。あたしはこう言った絵の事は理解できない、でもあたしはこう言う絵を描くのがきっと好きなんだ。あたしの人生はきっと春画を描く為にあったんだって、今はそう思う。だから春画に詳しいあんたに頼みたいんだ」
春画に詳しいとか言う、人生で五本の指に入るであろう
その後のスレンダー女の態度は困ったちゃんそのものだった。
しかも本人が
いざ私が人体の描き方に心が籠っていないとか、客の意見を汲み取って絵に落とし込むべきだと言うと、だってあたし人間じゃないしー? とぶう垂れやがる。
その癖私が指摘した事は散々文句を言いつつも完璧にこなすのだから、はっきり言ってこいつは他人の心を荒まれるのが上手いと言う他無い。
それだけじゃない、こいつは私以外の人間に対しては
何故私相手にあんなにもボロを出して元の姿を一度ならず晒していたのか理解に苦しむ。
周囲の人間には手の
おかげで私の仕事は主に、絵が上手いが絶妙に絵が下手な人間に指摘をする事であって、さほど
「おーい、やってる?」
私は与えられた合いカギを使ってスレンダー女の部屋に入った。
スレンダー女は最初に会った時同様端末に
手でスレンダー女の髪を梳き、
私はスレンダー女が擬態の仕組みを教えてくれた時のことを思い出した。
「あたし達は擬態しようと思えば、肌や
スレンダー女は度々肉塊の姿に戻る事があった、どうやら人間になったきりの積もりは無いらしい。
その事に関心を抱くと、スレンダー女の言うところ、調査に行ったきり擬態を解く事を選ばなかった同族は少なくないらしい。
「あんたさ、あたしが擬態を解かずに人間のまま生きるって言いだしたらどうする?」
スレンダー女は作業の手を止め、悪戯っぽく私に訊ねた。
嘘だ。
この女は春画を自分の人生だと言っていると同時に、春画を自分達では考え付かないと人間らしからぬ評価をしていた。
つまりこいつは人間に興味はあるが、それは自分が人間じゃないと言う自我を持っているからこその発言だ。
『それは人間は人間だと思っていなければ出てこない発想だ』と、私はスレンダー女の言葉を否定した。
「ふふ、当たり。でもさ、あたしが普通に地球で人間として生まれたらどうだったんだろうなーとも思うのよ。やっぱり春画を描く人生を歩む運命だったのか、それとも地球に調査に来ないと春画を描かない人生だったのか、時々そう考えると夜眠れなくなるんだ」
うるさい、夜は眠れ。作業効率が落ちる、創作を理由に睡眠時間を削るな。
「あはははは! 鬼編集だ、こわーい」
* * *
「おーい、やってるー?」
私はいつものように渡された合いカギを使ってスレンダー女の部屋に入った。
現状の仕事が全て順調なのは知っているが、毎日顔を会わせなければ仕事をするうえで弛みが生じると言うのが私の持論だ。
スレンダー女はいつもの様には端末に覆いかぶさりながら作業をしていなかった。
かと言って眠っている訳でもなく、風呂に入っている訳でもなく、なるほどじゃあ外出中かと納得したところ、端末の上に置手紙があるのを見つけた。
* * *
ごめんね、編集さん。何を言えばいいか分からないから、とりあえず
あたし達の目的は調査と頭脳流出なんだ。だからあんたとはもう会えない、あたしはあたしの星に帰って、あたしの得た事全てを報告する。
あんたと一緒に過ごした地球での日々は、本当に楽しかった。楽しかったから、黙って出て行く事にする。
あたしが請け負っていた仕事は全部完成して、納品しといたから安心して。本当にあんたには感謝しかない。
それと最初に
謝ってばかりであたしの気持ちは何も伝わらないかも知れないけど、それでいい。あんたはあたしみたいな厄介な異星人にこれ以上厄介かけられずに済んだと思ってくれれば、あたしはこれで幸いだ。
* * *
何が幸いだバカ! あんたは春画を描くのが好きなんじゃなかったのかよ!? だったらもっと私を頼って、私と一緒に春画を描けよ! お前はサイテーの自分勝手だ、宇宙最悪の自己中女だ!
私は自分の端末を操作し、納品された絵を確認する。
完璧だった。半裸のイゾーが愛憎入り混じった目でリョーマを睥睨し、リョーマはイゾーを愛おしそうに自分の意のままになる男を見る目で見つめている。私の思い描いた通りの絵だ。
「バカヤロー! 帰ってこい! 何の為に絵を描いたんだ! 裏切り者! よくも私を騙したな!!」
私はマンションの窓から宇宙に向って叫んだ。
* * *
どこかの病院の病室、身体の右半分が
「そうでしたか。私の不詳の弟子が、辛い事をしましたね。本当に申し訳ない」
画家の女性は見舞客に対してそう謝った。
「いいえ、先生が謝る事ではないです。あのバカが私を騙したのが悪いのです」
「彼女の事は許してあげましょうよ。お手紙にある通りなら、弟子はあなたの事を好いていて、手紙を書く際に苦しみ、別れを惜しんだ筈です。それに何より……」
「何より、何ですか?」
「ここから見える星のどれか、私たちの知っている春画が地球の文化として伝わったと考えたら、面白おかしいじゃないですか」
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